7月 9 2018
自然と人工
物理学の根底で働く諸力を精神の諸力と同一視していく思考の作業は、ある意味、自然それ自身になるために闘争する作業に近い。その所作を古代ギリシア人たちはフィシスという言葉で理解していた。ハイデガー風にいうなら、隠蔽性を解除するということ。もしくは、世界-建設の出来事。
隠蔽性の解除とは、瞬間の中に永遠の穴を穿つことでもある。人間の意識では立ち入り禁止とされていた物自体の内部へと不法侵入を果たしていくこと。それによって、わたしたちは「神」という呪いの言葉から解放されていくことになる。
そろそろ、「いるもの(現存在)」は「あるもの(存在者)」から逃れて、「なるもの(生成)」へと向かう必要がある。ハイデガーはそれが技術の本性だとも言っている。自然との共生もこの新種のテクノロジーの誕生によって初めて可能になるのかもしれない。
その意味で言うなら、人間のテクノロジーは見事に引っ繰り返っている。原因は自己と他者を逆さまに見ているところにあるのだろう。意識におけるこの錯視によって逆生成の模倣回路(シミュラークル)が生じている。ここにエネルギーを注いでいるのが資本主義の欲望だと言っていい。となれば、現代資本主義における貨幣とは、根源的時間の物象化と言えるものになる。時は金なり―言い得て妙だ。
7月 11 2018
時代なき存在論の復活を!
人間の内面においては観測者はリンゴと同じように単なる物体として認識されています。このとき、観測者から広がる世界が時空(局所座標系)に当たります。
一方、人間の外面では奥行きは持続空間ですから、時空の広がりを一本の線分の中に束ねてそのまま縮んでいます。物理学に対応させると、これがスピノル(物質粒子のスピン)に当たります。
スピン(ヌーソロジーでは垂質と呼びます)はそのまま表相の次元(リンゴの見えを作っているリンゴの直径部分)に重なり合っています。なので、リンゴを囲んで複数の他者がリンゴを見ているとき、そこでのリンゴの回転はそのままスピノルの回(SU(2))を意味することになります。ヌーソロジーでは、この回転のことを「表相の等化」といいます。自己と他者の表相を等化するという意味です。
「表相の等化」とは分かりやすく言うと、自他が表相を共有し合うということです。たとえば、リンゴの一部分にキズがあるとき、そのキズの存在を自他が互いに了解するということ。言うまでもなく、それはリンゴの回転によって可能になるわけですが、実は、この表相の等化によって生まれてくるのが、図1に描いた人間の内面なのです。
このことは、言い換えれば、自他におけるモノの回転の相互了解が3次元空間と時間の発生の契機になっているということを意味しています。時間と空間の中でリンゴが回転しているのではなく、リンゴの回転が自他の間で相互に了解されているから、そこに時間と空間が生じてくるのです。
このとき、持続空間として活動していた自他の奥行きと幅は自他によって等化されてきます。奥行きの同一化が時間を作り、幅側の同一化が空間を作リ出します。ヌーソロジーが「時間とは客観的視線である」というのも、ここから来てます。そして、SU(2)回転の機構の中で、この役割を担っているのが、おそらく、核子(陽子・中性子)です。陽子が時間を作り、中性子が空間を作り出していると思われます。
このSU(2)のトポロジーのカタチは、哲学で言うなら、ハイデガーの「二重襞」や、ドゥルーズの「巻き込みと繰り広げ」といった、外部=内部、内部=外部(包みつつ包まれ、包まれつつ包む)のモナドロジックな無窮運動の最も基礎的なカタチと言っていいものです。
このモナドの運動を垂直的に多重化させていっている精神の運動がわたしたちが元素と呼んでいるものの正体であり、わたしたちが物質的自然と見ているものは、人間の内面側に束縛された意識に映るその射影のようなものに思われます。
外と内の交通路が浮上し始めています。古代の存在論、中世の存在論、近代の存在論、現代の存在論を展開した最良の精神たちの鋭意を継承して、時代なき存在論を復活させましょう。存在論は永遠において思考されなくてはいけません。その思考の歩みにおいて、主客の宇宙は終わりを告げていくのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), スピノル, ドゥルーズ, ハイデガー, モナド, 存在論