2月 26 2005
S博士のこと
一ケ月ぶりの東京。今月の東京出張は25、26、27の3日間。
今日は今度会社の方で発売する新商品のパブリシティの件で一日が潰れた。
精神科医のS博士と販社のR社を訪問。
S博士との付き合いは長い。かれこれ20年くらいになるだろうか。
ヌース理論の成り立ちを知っている幾人かの人はもうご存知だろうが、
わたしは28才のときに原因不明の精神異常に陥ったことがある。それもかなり強烈なやつである。
文字通りサターン・リターンを地でいったわけだが、そのときに霊界をさまよい、
最終的に、自称「神」と名乗る暗黒霊に取り憑かれ、完全にイッてしまった。
気がつくと、精神病院の中。
そのとき、わたしを救ってくれた恩人が若き日のS博士であった。
博士とはそれ以来、親しくお付き合いさせていただいている。
S博士はT大の哲学科を出たあと、医学部に入り直したというだけあって、
宗教や精神世界にも造詣が深い。中沢新一氏とは大学では同級生だったらしく、
宗教心理学を専攻していたと聞く。S博士自身、そういったバッグボーンがあったので、
わたしを襲った異常事態が普通の分裂病の類いではないと判断できたとおっしゃる。
実際、折に触れては「わたしが担当でなかったら、半田さんはまだ病院の中ですよ。」と笑いながら言われる。
あわわわわ、そんな殺生な。
まっ、こうした事件があったからこそ、ヌース理論なるものもこの世に登場してきているわけだが、
S博士もヌース理論にはとても関心を持ってくれており、成り行きをずっと見守ってくれているようだ。。。
って………ひょっとして、まだ観察してたりして(笑)。
以前、一緒に飲んだときに、20年前の僕らの話を本にすると面白いのでは?と提案したことがある。
S博士はどことなくだが、F・ガタリに風貌が似ている。
わたしはドウルーズの命日と同じ日に生まれているので、とりあえずドゥルーズ役。へへ。
二人でなら本当の強度ある「アンチ・オイディプス」が書けるじゃないか、と考えたのだ。
博士も少し乗る気なのだが、いかんせん、今は経営に忙しくてなかなか時間が取れない状況だ。
精神科医と元その患者が共著を出版する——。タイトルはズバリ「正気と狂気」。
嗚呼、何と素晴らしい企画ではないか。ラカンが生きていたら大喜びすること間違いなし。
日本中の精神を病んだ人たちにも希望の灯が差す。
——君たちは病気なんかじゃない。世界が病気なのだ。治癒するべきは世界である。
今でも、この企画は捨ててはいない。何とか実現にこぎ着けたいものだ。
おっと、もうこんな時間か。
ホテルの窓から見える東京の夜景。
この景色の下で、数万、いや、数十万の人々が眠りについている。
夜は深い。昼が考えるよりもずっと深い。
昼よ、夜の深さに気づけ!
6月 13 2005
月の光の幻想 その2
さて、ドビュッシーの「月の光」の中に秘められた神秘主義的観想はさておいて、一昨日の「光の形而上学」に関してちょいとばかり追記しておこう。
闇の中の光と光の中の闇における、最初の対立は見ることそのもの中において起こっている。その事件をあえて図式化すると左のようになる。この図は一つのモノを挟んでの自己側の光と他者側の光の在り方を単純な幾何学として示したものだ。見て頂いている通り、左右の円板A、A*は自・他の視野空間を表し、その中心点B、B*は同じく他・自の瞳孔を表す。わたしの視野空間A上に映し出されるあなたの瞳孔Bと、あなたの視野空間A* に映し出されるわたしの瞳孔B*の関係が交合円錐として表されているものと考えてくれればよい。
この図を見てすぐに分かることは、一般に僕らが「三次元」と呼ぶ空間描像の在り方には二つの種類があるということだ。一つは自他互いの瞳孔の認識の交換(B⇄B*)によるもの。もう一つは視野空間に見えている世界そのものの交換(A⇄A*)によるもの。つまり、この図に即して言えば、三次元には点の交換と面の交換による二つの類型があるということになる。当然、点の交換によって想像されている三次元は、見られているもの同士の交換であるから、そこには光は差すことはない。それらはいわば二組の閉じた目だ。一方、面の交換によって想像されている三次元は、見ることそのものとしての光に満たされた二組の見開かれた目の共同作業によるものである。ヌースでは閉じた目の交換によって生まれる領域を次元観察子ψ4(ψ*4)と呼び(ψ*はプサイスターと読みます)、一方の見開かれた目の交換によって生まれる領域を次元観察子ψ3(ψ*3)と呼んでいる。
わたしたちが通常3次元と呼んでいる空間は閉じた目の領域、すなわち、次元観察子のψ4(ψ*4)に当たる。これは、普通、人間の観察位置が「視点」と呼ばれていることからもすぐに察しがつくだろう。あなたの目も、わたしの目も、三次元世界に点状のものとして存在している、そういう見方の認識である。この視点の発生に自我性が覆いかぶさるってくる、というのが20世紀になって出てきた精神分析の知見だ。ラカンのテーゼ「わたしは見られている。わたしこそがタブローである」を思い出してみるといい。「わたし=主体」とは、本来、視野空間そのものであったはずなのだが、いつのまにか他者の眼差しに映る瞳孔へと姿を変え、三次元空間上に点状の存在としてピン止めにされてしまっている。つまり、「わたし」は「見るが故に在る」というよりも「見られるがゆえに在る」存在へと移行させられてしまっているのだ。この移行した質点をラカンは想像的自我の胚芽と見なした。これはフロイト流に言えばナルシス的自我の温床となっているものだ。三次元という水の中に溺れてしまった魚眼たち。闇の中の光、すなわち、シリウスファイルでいうところの「原初精神」の営みがここで行われている。
さて、こうした光の屈折の事件のあらましが見えてくれば、両生類的なものへと自らの眼をサルベージするのもさほど難しいことではなくなるのかもしれない。一つ考えられる方法は、見るが故に在るもの、つまり、視野空間そのものに真の主体の座をまずは明け渡してみてはどうかということ。そして、今度はその視野空間自体を対象として見ているような意識の場所をサーチしてみること。そこに本当の君が隠れているのではないか?………僕はそう感じている。あっ、それともう一つ大事なことを言っておかなくちゃいけない。
今まで、僕らは、物質の世界を見える世界、精神の世界を見えない世界と思って生きてきた。しかし、ここから類推される事実は逆だ。物質はそれが三次元的なものである限り、見えない世界に存在している想像的なものであり、そして、一方の精神の方は見える世界に存在する現実的なものである。ヌースの空間に入るためには、この”あり得ない反転”に関する視力を高めることが必要だ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 8 • Tags: フロイト, ラカン