7月 29 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その2
——前回よりのつづき
ルーリアの思考は至ってグノーシス的である。コルドヴェロを含めそれまでのカバリストたちが創造を常に神の前進的なプロセスだと考えていたのに対し、ルーリアは創造の御業を神の撤退と考えた。つまり、グノーシス主義者たちが言うように、この自然世界が成立してくる基盤には神の臨在というよりもむしろ神の不在があると思考したのだ。ルーリアがここで言う「収縮」とは神自身の自己隠蔽のことであり、神が聖性の充満した空間からその局所的な一点へと身を引き、その姿を隠すことによって、初めてそこで神自身とは差異を持つ創造の場所性(テヒル=根本的空間と呼ばれる)が出現してくると考えたわけだ。この場所性の提供は生命の樹においてはディーンというセフィラーが請け負っているとされる。
テヒルが用意されると、そこにヨッドとレシムという働きが介入してくる。ヨッドとはあの聖なる神名Y-H-W-H(ヤハウエの四子音文字)の第一字のことだ。一方のレシムとは神が収縮によって撤退を行ったときに残されたわずかばかりの残光とされるもののことである。ヨッドが創造における能動的原理だとすれば、レシムは受動的な原理と言える。セフィロト的にはヨッドはコクマーの属性であり、レシムはビナーの属性と考えていいだろう。ヨッドはこのテヒル(根本空間)に神の言葉としての光を入射させ、文字通り言葉を通じて世界を創造していくのである。
しかし、このテヒルには神の収縮の際に残されたレシムの光もまた存在している。新しく入射してきた光と置き去りにされた光(ヌーソロジー的にはこの両者こそが言葉と知覚の本性でもあるのだが)——この二つの光の登場によってルーリアの理論はここから一気に劇的な展開を見せてくる。この互いに異なる光の種族の間で闘争が始まるのである。これは旧約的に言えば天上界の戦いと呼んでもいいものだが、当然のことながらこの闘争は存在の父であるコクマーと存在の母であるビナーとが放つ二条の強力な光線の拮抗関係に拠るものと考えられるのだが、この理論的修正は驚くべきことだ。なぜなら、コクマーとビナーはルーリア以前のカバラ解釈においてはベリアー(創造界)に君臨する「完全なる人間」としてのアダムカドモンの両肩・両腕に相当する器官でもあり、ルーリア以前には完全無欠な智慧と知性と考えられていたものだからだ。ルーリアはこの二つのセフィラーが放つ光の間に光と光の不断の闘争という性格を持たせたのである。
この上位のセフィラーから流出する二つの光の激突が放つ光量のあまりの目映さに下位のケセドからイエソドに至る六つのセフィラーは粉々に粉砕されてしまう。これが「シェビラート・ハ・ケリーム(容器の破壊)」と呼ばれるカバラ形而上学における最大の事件である。この破壊された部分は生命の樹においてはちょうどイェッツェラー(形成界)そのものに当たるが、かろうじて第十のセフィラーであるマルクトだけは残される。ただルーリアの理論ではなぜマルクトだけが残されたのかその理由が今一つ定かではない。私見を少しだけ挟むとすれば、これはおそらくビナーとコクマーを調停する力としての第一のセフィラーであるケテル(王冠/創造の始源的意思)の力がマルクト(王国)に反映されているからだろうと考えられる。マルクトとはカバラによれば物質世界そのものの領域のことであるが、この最下位のセフィラーであるマルクトが物質世界とされるのは収縮によって撤退したケテルにおける神の創造的意思そのものがテヒル(根元的空間)においては物質として顕現してくるからに他ならない。
このケテル-マルクト-コネクションによって、マルクトは破壊されたイェッツェラーの代理機能を果たそうとイエソドからティファレトに至るまでの四つのセフィロトの偽像を作り出してくることになるのだが、それがアッシャー(活動界)と称されるわたしたち人間の意識が活動する世界のことである。
——つづく
8月 4 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その5
――前回からのつづき
フッサール哲学とハイデガー哲学の差異を生命の樹で表すとすれば、フッサールがアッシャー領域の内部を網羅して見せたのに対し、ハイデガーはその外部を開いて見せ、同時にその外部へと向かうためにアッシャーの足場たるマルクトの解体を試みたという感じだろうか。アッシャー圏の最上位にその統括者として位置するティファレトとは哲学的に言えば超越論的主観性(自我)の位置であり、フッサールの思考はイエソド(これがアプリオリな無意識構造の取りまとめ役に当たる)を中心に広がるアッシャーの光の痕跡を拾い集め、ティファレトを中心とするイェッツェラー圏の存在を現象学的な構成分析として指し示そうと奮闘した。
しかし、結果的にティファレト自体が持った自我同一性によってすべての語りがモノローグに終わり、アッシャー内の意識の同一性をより強固なものにするに止まってしまった。
一方、ハイデガーは主体の思考全般を象っている言葉自体を主体からまずは脱臼させることから始める。ハイデガーによれば「言葉とは存在の家」であり、そこでは存在自体が主体を通して言葉を語らせているのであって主体が言葉を操っているのではない。言葉とは存在者の異名に他ならないのであるから、これはアッシャー圏の基底となるマルクトという存在者の王国を何か全く別なものへと変質させようとするハイデガーの意図の現れと解釈できないこともない。
僕自身は、ハイデガーの狙いは生命の樹に即して言うならば、生命の樹そのものの引っくり返しそのものにあったのではないかと考えている。つまり、存在者=多なるものの世界(マルクト)に重なるとされる存在=一なるものの世界(ケテル)を現出させることによって、生命の樹自体を支配している神と被造物の審級の関係を一気に逆転させようとしたということだ。
これはニーチェが行おうとしたプラトニズムの逆転のアイデアをハイデガー風にアレンジしたものと言える。これによって主体の生は意識の方向性の反転を余儀なくさせられ、死の欲動のビジョンの開示へと向けられる。彼が死への先駆的覚悟性と呼ぶものだ。
この視座の反転によって主体はマルクトではなくイエソド(ここは人間の死の場所性と考えられる)を実在世界と見なすようになり、ハイデガーのいうこの投企の行為によって足場をすくわれたアッシャー圏は逆光のエネルギーを減衰させ、そこに自然とイェッツェラーが放つ順光によって照らし出される主体外部の風景が朦朧と浮かび上がってくることになる。
ティファレトという存在はアッシャー圏から見ればその内部性の最上位に位置するが、それは同時にイェッツエラー圏の中心位置としてアッシャーの外部とも言えるような二重の点になっており(図参照)、ハイデガーがいうところの現存在の二重襞性(主体がオブジェクトレベルでもありメタレベルでもあるということ)を擁している特異点である。ハイデガーはこの二重性を看破はしたものの、その外部が何かははっきりとは見えなかった。
彼が『存在と時間』を完成に漕ぎ着けられなかったのもそのためだろう。破壊された容器の修復の着手にはもっと別の何かが必要なのである。
と言って、もちろんハイデガーが何もしなかったわけではない。ハイデガーはアッシャー圏の限界を熟知し、イェッツェラー圏への方向転換を目指し、死の空間の向こうに広がる存在の重大な秘密を開示させようとした。その秘密とはまさにヌーソロジーがその構成に着手しようとしているモノの本性への侵入のことなのだが、ハイデガーにおいては、その試みは「大地」「天空」「神的な者たち」「死すべき者たち」という彼自身が四方界と呼ぶ意味不明な暗号の中にうやむやにされたままに終わっている。
ハイデガーが垣間見たこの四つの方向性は、彼がその二重襞たるティファレトにおいて絶えず思考していたと仮定すれば、さほど難しい内容を語っているわけではない。それはモノの創造における天空への開示、そして、大地への開示、さらには、それらの開示を与える者と受け取る者の配置関係についてである。
セフィロトで言えば、ティファレトから分化するケセドとゲブラー、そして、イェツェラーからベリアーへと突き進むもの、そのときの反対物としてアッシャーへと戻されるものという関係になる。言うまでもなくケセドが天空の開示であり、ゲブラーが大地の開示である。
そして、ベリアーへと突き進むものが神的な者たちであり、アッシャーへと降りてくるものたちが死すべき者である。こうした未知の高次の空間の分化/展開は現代物理学の発展を見なければその論理化は不可能である。いずれにしろ、ハイデガーは性急すぎたのだ。
→つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カバラ関連, ハイデガー関連 • 0 • Tags: カバラ, ニーチェ, ハイデガー, マルクト, 生命の樹, 言葉