1月 9 2019
見る空間と見られる空間について丁寧に考えていくこと
今回はまたまたヌーソロジーの空間認識のごく基本的なところを。
今のわたしたちの意識は、「見る空間」と「見られる空間」の区別をせず、「見る空間」さえも「見られる空間」の中で思考している。この”蛮行”が世界本来の姿をその根底から見誤らせている。
見る空間は「奥行き」、見られる空間は「幅」。この絶対的な違いをしっかりと頭に入れて、空間を再構成しないといけない。たとえば、一つの物を見ているときの前方方向と手前方向との違いを考えてみよう。両者は、それぞれ次元観察子ψ3とψ4の基軸となるものだ(下図上)。
前方方向は奥行きそのものであり、そこには見えるものがあるだけで、見る者の姿はない。つまり、ここには、見るものと見られるものの分離は存在していない。これがψ3の基軸の意味するところ。
一方の物の手前方向の空間はどうか―わたしたちはこの物の手前方向に「自分(観測者)がいる」という感覚を生み出している。ここにψ4の基軸がある。
3次元の空間認識だと、この〈見る/見られる〉は180度の関係でしか表せない。実はこの状況が非常にマズイ。というのも、反対側に回れば〈見る/見られる〉の区別がまったくできない空間になってしまうからね。
でも複素空間認識だと、〈見る/見られる〉という空間の質の違いも含めて、ψ3とψ4の差異をスマートに形式化できてくる。それを示したのが下図下。僕らが物の手前側に自分の位置を感じているとき、実は、そのとき奥行きは横に回っている。だから、物の手前側は奥行きではなくて、幅なんだね。
最初は大変だと思うけど、何度もトレーニングしていると、何を言ってるのかが無意識側が反応してきて、自然に分かってくると思うよ。
3次元の思考形式(対象意識)から出ていくためには、こうした、見るもの(持続)と見られるもの(延長)の差異を考慮した空間認識を作っていかないといけない。それがヌーソロジーがいう「次元」の世界。
ハイデガーに拠れば、神の到来は「比類なき近さ」として現成する。個人的には、それは奥行き=複素空間という理解が人類に訪れる日のことだと思っている。到来する神は人間の精神の礎として眠っているのであり、それはニヒリズムの極限において、また目覚める。また、そう願いたい。
なぜ複素空間認識なのか―物質とは”わたしたち”の精神を基底にして内側から花開くように成長していっている自他精神の共同そのものの姿であって、それを外から単なる対象のようにして見てしまうと、その内に息づく存在の精神の営みそのすべてが見失われてしまう。この「夜の時代」を終わらせること。
1月 11 2019
生命形象としてのアンク
空間形態のトランスフォルムは「前」と「後ろ」の差異化から始まる。これは自己と他者の差異化と同じ意味を持ってる。「前」と「後ろ」が3次元空間認識の中で意味を失っているということ。このことをズバリ言い当てているのがカタカムナ発の相似象。
―トキ トコロ ウシ 時間と空間とは「ウまれてくるウシロ(客観的背後)の示しという思念である(相似象学会誌第四号p.121)―「後ろ」の語源は「丑(うし)」+「ろ」。「丑」は種子の中に止まるという意味。「後ろ」は土中のように暗闇だということ。そこに時空を見てるのがわれわれ人間。まぁ鏡像だから致し方ないんだけど。
ハイデガーで言うなら「前」は存在。「後ろ」は存在者。「前」への「後ろ」の重なりが現存在といったところか。とにかく、空間認識を是正しないと、まともな思考は生まれようがない。土台からして歪んでいるわけだから。
複素空間認識へのトランスフォルムは、この「前」と「後ろ」の絶対的な違いに気づくところから始まる。現実の生活でみんな大変だろうけど、一度、真剣に「前」と「後ろ」の違いについて考えてほしい。
自己他者の前と後ろの関係から発生してくるのが生命形象としてのアンクと考えるといいんじゃないかね。
時間というのは精神が直線的に開いたもの(接線)だということが分かる。物理学はこれを波動関数の微分で表現し、それをエネルギーって呼んでる。言うまでもなく、この精神としての円は例のキットカット実験が作る円。円の中心は外的な絶対的中心(非局所的中心)。この古代形象を意識に上げること。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カタカムナ, ハイデガー, 複素空間