1月 18 2013
エーテル空間を感覚化する方法
最近、facebookで「神秘学遊戯団」というサイトを主催しているKAZEさんから『エーテル空間』(G・アダムス著)という書籍を教えてもらった。KAZEさんとはNifty時代以来の邂逅で、当時、シュタイナー会議室を開いていた方だ。
読んでみて驚いた。というのも、『エーテル空間』というのは僕自身が「反転した時空」として長年考えてきたものと同じ場所のことを言っていたからだ。これ一冊でいろいろと示唆されることはあったが、同時にこの書籍のマズいところもいろいろと見えた。第一の難点はG・アダムスがエーテル空間を射影幾何学で説明しようとしているところ。第二点は前回も書いた純粋持続の視点が弱いために、エーテル空間を具体的に描写できないこと。この二つだ。
射影幾何学の何が悪いかというと、確かに射影空間というのはユークリッド空間の起源となるものなのだけど、概念自体がユークリッド空間の概念から派生しているために「同一性」の縛りから抜け出れない。その束縛が説明にも見事に襲いかかっていてG・アダムスの差異化への思考を妨害しているように感じる。
持続の視点が弱いというのは、エーテル空間がそのまま持続の空間であると言い切っていないところだ。エーテル空間は物質空間のように対象的に見る空間ではない。自分自身の意識を実体として感じとる空間だ。G・アダムスにはその視点からの説明があまりない。その点で読む人は何とも宙ぶらりんのサスペンス状態に陥ってしまうのではないか。
さて、ここからは完全にヌーソロジーからの持論になるが、シュタイナーのいう「エーテル空間」の構造は射影空間というよりも、3次元球面というカタチを基本にして考えた方が発展性を持たせることができるのではないかと思う(あとあと複素空間へとつなぐできる)。3次元球面は数学的には4次元空間上の球面で、球面と言ってもその形は3次元空間と同じだ。ただ違うのは無限遠が一点でくっついているということ。分かりやすく言うと、3次元のどの方向をとっても円になっているということだ。このカタチは通常の幾何学的な対象としてイメージしようとしてもまず不可能なので止めた方がいい。
3次元球面というカタチを理解するためには、3次元空間における無限遠点とは何かをまず理解しなければならない。無限遠と聞くと普通は「ずぅーと遠くの無限の彼方」をイメージしてしまうが、実はそんな方向には無限遠は存在していない。何しろ”無限”に遠いのだから、ずぅーと進んでも無限遠に行き着くはずはない。もっと言ってしまえば3次元空間の中には無限遠点は存在しないのだ。
だから、この無限遠点は3次元空間の中の「点」とは絶対的な差異がある。つまり、質が違うものなのだ。僕らが対象的に思考する幾何学はすべて「対象的」という意味で同質だ。だから、無限遠点を考えるときは対象的ではない「点」を考えなくちゃならない。そんな点なんてあるのか?と思うかもしれないが、それが空間に一つだけある。つまり、「観点」だ。「観点」とは世界を見ている自分がいる「点」ということだ。
周りに広がる無限の空間の中で「観点」だけが異質なのはすぐに直観できるのではないかと思う。何しろ、その観点があってこそ、世界が開いているのだから。その意味で観点は物質的な3次元空間には決して落とすことはできない。これを平気で落としているのが科学的世界観だと思えばよい。科学は無限遠ってどこだ?と聞くと、「それは物理学的には〈特異点〉に当たる」とか何だか難しい言葉を使って偉そうに言うのだけど、それは空間の妙を何も理解していないからだと思っていい。
観点とは無限遠点であり、僕らはそこから世界を覗き込んでいる。仮定として、こう考えてみよう。
さて、自分のいる場所を「無限遠」だと仮定すると、宇宙のはるか彼方には自分の後頭部があることになる。ここで、観点を自転させてみよう。つまりは、グルッと身体を回転させてみるのだ。そうすると無限遠の先にある後頭部としての観点も一緒についてくるのが分かる。変な喩えだが天球面とは自分の後頭部がビローンと開いたようなところなのだ。
物質空間では奥行きの回転は自分を中心としてイメージされているので、奥行きはその回転における半径のようにイメージされてしまう。しかし、エーテル空間では天球面上には自分の後頭部があるのだから、この回転は半径の回転ではなくて直径の回転のように感じてくる。これが非常に大事なところ。さて、このときの回転の中心点とはどこだろう?図を書いてその正体を確かめてみることにしよう(下図参照)。
ありゃりゃ。見事に反転してるわ。物質空間では自分の位置を0点と考えていたので、無限遠は外に広がるような感覚で捉えられていたのだけど、自分自身が無限遠点だということが分かると、かつての0点がこの無限遠点∞に移動するのだから、かつての無限遠は逆に0点に移動することになる。内と外の関係が見事にひっくり返って、エーテル空間が目の前に出現してくるのが分かるはずだ。そして、ここにおいて3次元球面も完成してるのが分かる。つまり、3次元球面をイメージするためには物質空間における点(観点)を球面へと開かない限り無理だということだ。
では、ここで出現してくるエーテル空間の中心点(無限遠点)というのは何なのだろう。。。
ということで、今日のヌースのゴタクはここまで。詮索好きの人はゆっくり考えてね。
1月 19 2013
新しい時代の秘儀参入
人間と「人間の反対」は太陽系においては地球と月に反映されているとOCOT情報はいいます。これは地球が物質空間を支えていて、月がエーテル空間(反転した空間)を支えているという意味です。この二つの天体が持った空間の広がりは、地上では物質からの広がりと身体からの広がりに対応しています。ですから、地球の自転は物質空間の生成に対応しており、月の公転はその物質空間において物質空間を受け止める物質的身体、つまり、肉体の関係を意味しています。
つまり、地球と月の公転はモノを中心にして人間の肉体が回ることと同じ意味を持っていると考えて下さい。しかし、ここで重要なのは「月が地球に対して決して裏をみせない」ということです。こうした状態をモノと肉体との関係で形作るためには、肉体は絶えずモノを見つめながらモノの周りを回らなければなりません。このとき肉体はモノに対して単に公転するだけではなく、かつ、自分自身も自転しています。
ただ、ここで物質空間だけ見ていたのでは、月の自転の意味を見失ってしまいます。この月の自転が意味していることとは一体何かを考えることが重要です。そのためのヒントは、前回示した「エーテル空間での無限遠の内側への畳み込み」という反転概念にあります。「公転することが自転に変わる」とは前回の図に即して言えば、周縁として働いていた円が中心としての点への機能へと変換させられているという意味を持ちます。ですから、月の自転は月の公転を反転させている様子として見なくてはなりません。月の公転は地球からの広がりの中で起こっているのですから、物質空間に準じています。しかし、月の自転の方は反転していますから、エーテル空間に準じています、つまり、地球から広がる空間と月から広がる空間は反転しているわけですね。こうして、OCOTが「人間と人間の反対は太陽系においては地球と月に反映されている」という意味が空間認識の文脈から理解できるようになります。
科学はこうした公転周期と自転周期の一致を「1対1の軌道共鳴」と呼びますが、その物理学的原因は明らかではありません。しかし、このように反転した空間概念が生まれてくると、月の公転と自転は物質空間とエーテル空間の相互反転関係における両者のバランスを取っている状態として解釈することが可能になってきます。実際、OCOT情報は「月とは調整を行う力の柵」と言ったりもします。つまり、地球の自転によって生成されている物質空間に対して、月はそれを受け止めながらも、それを秘密裏のうちに反転させ、エーテル空間へとつなぎ意識の物質化を食い止めているのてす。月の自転と公転の寸分も違わない一致は物質空間とエーテル空間の絶対的な平衡関係にその原因があると考えてよいでしょう。
さて、地球が約28回自転する間に月は1回自転しています。このことはエーテル空間の中には聖数「28」として数えられる何らかの機構が存在していることを暗示しています。地球の自転数「28」とはその機構が物質空間において見えなくなって溶け出している状態だと考えられます。28日とは人間にとっては時間の長さのことですから、時間の経過として精神構造は溶け出しているということになります。
エーテル空間は反転していますから、前回、図で示したように物質空間におけるあらゆる位置を一点に統一する性格を持っています。これはエーテル空間が人間においては非局所的なものとして出現しているということを意味します。物質空間において様々な位置に局所的にばらまかれている物質も、エーテル空間で見ればそれは一つの位置で重なり合っていることになります。しかし、この重なりは無数の物質が多重に重なりを作っているという意味ではありません。物質の位置という「一つの概念」として重なり合っているという意味です。逆に言えば、この概念があるからこそ、わたしたちは物質に位置を与えることができています。
局所と非局所の重なりの関係をどう捉えていいか分からない人もいるかもしれません。これは簡単に言えば、自分が動いているか絶対静止状態でいるかの違いと考えれば、とりあえずはそれで十分です。ここでいう「絶対静止」というのは視界をPCのモニターのようにして見ている自分の状態を想像すれば事足りるでしょう。「動いているのはわたしではなく、世界の方だ」——そう考えれば、そのとき「わたし」はエーテル空間にいることになります。「生まれて自分は一度も動いたことがない」なんておそらく誰も思っていないでしょうが、ちょっとだけイメージをすれば、その「絶対不動」の場所が自分の人生にずっと寄り添ってこっそりと存在し続けていることが分かります。まずはそのこっそり感覚の方へと自らの意識の重心を移して下さい。そして、そのとき目の前に対象の統一位置としてのエーテル中心を想像し、そのエーテル中心を原点に持つ空間に注意を払って下さい。そこから超感覚的なものとしての純粋思考物体が存在する空間に入ります。
ここで純粋思考はどうやらイデアとしてのプラトン立体群を練り上げているようです。シュタイナーならばこのプラトン立体群を霊と呼ぶのでしょうが、それは純粋持続によって構築されている純粋な幾何学的構造体です。この構造体を人間が見いだすことは、それこそシュタイナーのいう「真夜中に太陽を見る」ことと同じ意味を持つのではないかと思います。月の太陽へのメタモルフォーゼと言ってもよいかもしれません。そして、その構造体を数学的に見ていくと、現代物理学が水素とヘリウムと呼んでいるものを生み出す機構になっているように見えます。もし、このような状態で、自らの目の前のエーテル中心に太陽の生成が見えてきたとき、意識は地球と月の領域を離脱し、すでに地球の公転軌道へと入っていると考えなくてはなりません。これは当たり前の話ですね。目の前のエーテル空間の中心になにやら構造を持った幾何学体がうごめいており、それが水素からヘリウムへの核融合として表されている………それは太陽と地球の公転軌道の関係そのものです。
新しい時代における秘儀参入。それにはもう象徴的思考も、修行も、瞑想も入りません。だれもがある程度の思考努力によって自由に参画可能なものとなるでしょう。そして、この秘儀参入は今まで科学が解き明かしてきた物質の外皮の構成を、その裏側から見る能力を持ったものになります。つまり、物質の存在意味がすべて自分の内在性として把握されるようになってくるということです。これ以上のエンターテイントメントはありません。ほんと楽しいですよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: エーテル, プラトン立体, 地球の自転, 無限遠