5月 3 2006
形質の発露
あ〜、世の中5連休だというのに、わたしの頭の中は相も変わらずヌース菌に感染しっぱなし。仕方ない。一冊の本を書くとはこういうことなのだ。。ということで、前回のつづき。。
地球表面に棲息している全人類の前が一点で交差することのできる奇跡的な「点」。。
どうも、これがOCOT情報にいう「形質の発露」であるという気がしてきた。
「形質」とは、普通の言葉で言えば、幾何学のことである。形質の発露とは、その意味で「点」概念の形成、という意味になる。僕らの意識に自然に湧き出てくる点概念は地球中心が送り出している。。。ほんまか?
もし、ほんとだとしたら、あまりに超絶でこれほど楽しいことはない。ルンルン♪。
一つの対象を無数の観測者が取り囲んで、それを中心に回転する。まぁ、人類全員で「カゴメ」をやるようなものだ。そのときに認識される回転の中心点。大雑把ではあるが、そこが地球の中心点となる場所である。そこが点というイデアの本質。。。
おそらく、この数学的仕組みには例のペンローズのツイスター写像が暗躍している。ツイスター理論では、3次元球面S^3がそのまま点と同一視されるのだが、この同一視は「点」という超越論的理念の成立の履歴を示しているものではないかと考えられる。つまり、僕らが何気に「点」と呼んでいるものを客観空間にイメージしている背後には、実は3次元球面の回転対称性が暗躍しているのではないか、ということだ。そして、その対称性とは、すべての人間の視座の変換に対する対称性である。
ツイスター理論を知らない人には迷惑千万な言い回しになってしまったが、別に何のことはない。ヌースの文脈では、この高次の対称性空間は、僕ら全員が空間上の同一の位置を見ながら、そこを中心にグルグルと回れば作り出すことができる。「このときに共有される空間認識の全体性」は、数学的には4次元の回転対称性(SU(2)対称性)となると考えられるからだ。これは数学的には3次元球面の回転対称性と同じものでもあるので、それを点の理念の位置と考えることができるのだ。点は皆が揃って点と規定する位置に生まれている——よくよく考えてみれば、当たり前の話じゃないか。
点の理念が生成されてくる場所が4次元空間にあるのならば、時空自体の理念はどこにあるのだ?ということになってくるが、ツイスター理論では、その在処は7次元球面S^7にあるとされる。つまり、7次元球面S^7からのツイスター写像によって落とされて来たものが時空なのだ。このことは、大雑把に言えば、点から時空にいたるまでの幾何学的な発展構造と、S^3からS^7に至る発展構造とが、ある意味入れ子的な関係にあるということを示唆している。実のところ、前者はヌースの観察子概念におけるα1〜α13、後者はψ1〜ψ13の関係にほぼ等しい。
あ〜、また、話が難しくなってしまった。
何が言いたかったかというと、実は真の理念的空間というのは人間の身体全体が持った3次元性にほかならないのではないか、ということだ。僕らが一般にイメージしている物理的な空間(物的対象が措定されている空間)はその射影にすぎない。いわば身体空間から物質的空間への射影。その射影のシステムをペンローズは数学的に精緻に表現しているだけのことのように思えてならないのだ。
現在の人間は、オリジナルである身体空間が持つ3次元性をそのまま客体世界側の3次元性にコピーペーストして、そのコピペした客体の3次元性の方をオリジナルと信じ込んでしまっている。だから高次元が見えない。高次元とは自他の認識のやり取りが行われているいわば意識の交通空間である。物質空間の3次元性はそちらからの派生物なのだ。その意味で、物質的空間しか感受することのできなくなった近代人は、認識の逆転写ウイルスにとことん冒されていると言っていい。少なくとも科学がその基礎としている世界観、例えば、宇宙がビッグバンという大爆発で始まったとか、人間がサルから進化したとかいう話は、すべてこの病で発熱した脳が作り出している狂った幻想ではないのか。それらはすべてマシンシティーが仕込んだマトリックスの催眠コントロールなのだ。
身体が身体本来の空間へと立ち帰るならば、そこには真の大地=地球であるザイオンがある。前々回話した「不動の大地」だ。そこに降り立った真の知覚者には、おそらく原子と太陽系が同じものに見えるはずである。その神聖なる魂の居住地がヌースがこれから開拓していく新天地だ。原子や太陽系とは、そうしたザイオン的身体たちが持った共同思考物体である。そして、その思考の力線は、かのソースに通じている。
6月 5 2006
メドゥーサと科学的思考
ヌースが使用する人間の内面の意識というものについて少し説明してみよう。
ヌース理論では人間の内面の意識の力は重力として表れていると考える。だから、内面の意識の勢力が衰退すれば、重力は消える。重力は何が生み出しているか。それはヌースが「形質」と呼ぶものの力であると考える。形質が時空を曲げるのだ。
「形質」とは、前にも説明したように、モノの内部の空間を概念化している力のことだ。大雑把に言えば、モノの中の空間という解釈でいい。重力はこうしたモノの内部の空間が等化されていこうとする力である。対象中心ともう一つの対象中心はそのためくっつきたがる。そういうことだ。
さて、もう少し突っ込んで考えてみよう。物理学的には、重力の元となる重力子はスピン2のボゾンとされる。ここでいう「スピン」の正確な説明は各自の検索に任せるとして、このスピンという概念は、宇宙がノンベンダラリとした平板的な空間から出来ているのではなく、違った質の空間階層から出来ているということを教えてくる。そして、この違った空間階層が物質の生成原因となっているということまで暗示してくれる。宇宙には僕らには見えない次元のレイヤーのようなものが何層にもわたって重ねられているのである。その重なりが物質を作り出している。。
さて、「形質」とは何かというと、それは端的に言えば、尺度概念のことと言っていい。水素原子の直径が10の-8乗cmであるとか、地球から月までの距離が38万Kmであるとか言っているアレだ。さっきは「ものの内部の空間」と言ったのに、どうして、今度は「尺度」と言い換えたかというと、元来、長さという尺度は、モノの幅に由来するものだからだ。例えば、この球体の直径と言うとき、それは目の前に見える球体の幅と同意だ。幅は物体の内部の空間のカテゴリーに入るから、つまり形質である。
近代になって、この形質がモノの外側に飛び出してくるようになる。つまり、モノとモノとの間を計ったり、モノと人間の間を計ったり、徐々に領土を拡大してくるのだ。闇の軍勢が光を駆逐していくということの意味がよく分かる。。。
さて、話をスピンに戻そう。重力子のスピン2の空間では対象は180度回転すると元に戻ってくるとされる。えーっ、と皆は驚くかもしれない。普通は対象は360度回転して元に戻るのが当たり前だからだ。しかし、ちょっと頭を使えば、180度回転して元に戻る空間を簡単にイメージすることができる。それは何か——客観空間だ。
モノが360度回転して元に戻るという認識はあくまで主観的位置から成されている知覚が判断しているものだ。つまり、この場合、モノはヌースのいう外面に接している。つまり、「わたしから見ると」、モノは360度回転して元に戻っている。当たり前だ。しかし、もしこれが、僕と、僕と向かい合う君とが同時に見ている空間だったらどうなるだろう。こうした客観性が成立している場所では、当然、僕は君の場所にも居て、君も僕の場所にいることになる。それが客観の前提条件だろうから。そのときモノを回すとどうなるか。。。当然、180度の回転で元の場所に戻ってくる。君が見ていたところが僕のところに廻ってきて、僕の見ていたところが君の側へ回り込んでいくが、君のところに僕はいるのだから、元に戻ったように見えるのだ。これがヌース理論が解釈するスピン2の本質であると考えていい。つまり、重力が存在している空間は、僕とか君とか言った多数の主観が無視されている空間なのである。そこには生身の人間はいない。唯物論の空間なのだ。
そこで、この唯物論の空間と、さっき話した「モノの中の空間」がどう関係しているのかを説明しておこう。ここでヌースの観察子概念が大変有効になってくる。というのも、早い話が、主観空間を決定づけている空間とはモノの背後の空間だからだ。僕がいつも言っている視野空間のこと。無限遠点に主体の最初の位置がある、と言ってるアレ。それはモノの外部空間のことでもある。
こう考えると、物理学との関連で大変面白い考え方が生まれてくることになる。それはベクトルとは何かという問題だ。物理学にはさっき言った空間階層に分けて、スカラー、ベクトル、スピノール、テンソルと言った物理量がある。これらはスピンで言うと、次のような系列を成している。
(1)スカラー/任意の回転に対して元に戻る(スピン0)………ψ1(ヌース対応)
(2)ベクトル/360°の回転に対して元に戻る(スピン1)………ψ3
(3)スピノル/720°の回転に対して元に戻る(スピン1/2)………ψ5
(4)テンソル(2階)/180°の回転に対して元に戻る(スピン2)………ψ7
スピン2の空間はモノの内部。これはテンソルが支配する空間だ。そして、スピン2の世界は「凝縮化」のもとでスカラー(スピン0の世界)と円環結合している。(ここは哲学的に言えばモノ自体主義と唯物論主義の重なりのようなものだ。)つまり、量だけで方向性を持たない。スピン1の空間に入ることによって、初めて力と方向が生まれる。これがベクトルである。じゃあ、ベクトルとは何か。。。簡単だ。観測が方向付けられている位置のことである。目の前でモノがグルグル廻っても、わたし自身の位置は何一つ影響を受けない。かつ、その位置では回転するモノの背景として視野空間が息づいている。。ここは主観位置が最初に生まれているところである。つまり、ベクトルが具備している力と方向とは、精神の力と方向を意味しているということなのだ。その意味でベクトルの回転とは、以前話した、モノが絶えず見えるようにモノの周囲を観測者が廻ることによって作り出すことができる(最近、分かったことだが、これがSO(3)の本質のようだ。モノのSO(3)はその意味でベクトルを送り出す運動のようなものだ)。 しかし、科学一般の思考性は、ベクトルを単なる物理力としてしか見なせていない。それは、なぜか——これも答えは簡単である。モノの内部性の空間概念でモノの外部性をも覆い尽くしてしまっているからである。形質(尺度・公理系)が持つ、異常なまでの支配欲。形質とは、その意味で全てを差異なき同一化の体制に飲み込んでいく物神の力である。
21世紀の今日、現代物理学は次のように言う。
——宇宙の半径は137億光年である——
ぞっとしないか。。。形質は、ここにきて、人間は言うに及ばず、地球、月、太陽系、銀河系、そして宇宙のすべてをモノの内部に閉じ込めてしまったのだ。僕らは文字通り物神の支配下にいる。この世界はモノの中の牢獄であり、光が駆逐された無明世界である。まさにサウロンが支配する地獄なのだ。
重力(gravity)の頭文字は G、一神教の神(god)の頭文字もG。。人間=有機体(orgon)がこのGに完全支配を受けると、Gの刻印を打たれG-orgon(ゴルゴン)と化す。つまりメドゥーサである。今、世界中に無数のメドゥーサが徘徊している。君の頭にもニョロニョロと蛇が生えてきてはいないか?繁殖の場を取り違えた暗闇の生殖力。。。しつこいようだが、、首を切れ。「鏡」を使って首を切れ。君の中のペルセウスを蘇らせるのだ。(上写真はカラパッジョ「メドゥーサの首」)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 5 • Tags: スピノル, 形質, 無限遠