7月 11 2018
時代なき存在論の復活を!
人間の内面においては観測者はリンゴと同じように単なる物体として認識されています。このとき、観測者から広がる世界が時空(局所座標系)に当たります。
一方、人間の外面では奥行きは持続空間ですから、時空の広がりを一本の線分の中に束ねてそのまま縮んでいます。物理学に対応させると、これがスピノル(物質粒子のスピン)に当たります。
スピン(ヌーソロジーでは垂質と呼びます)はそのまま表相の次元(リンゴの見えを作っているリンゴの直径部分)に重なり合っています。なので、リンゴを囲んで複数の他者がリンゴを見ているとき、そこでのリンゴの回転はそのままスピノルの回(SU(2))を意味することになります。ヌーソロジーでは、この回転のことを「表相の等化」といいます。自己と他者の表相を等化するという意味です。
「表相の等化」とは分かりやすく言うと、自他が表相を共有し合うということです。たとえば、リンゴの一部分にキズがあるとき、そのキズの存在を自他が互いに了解するということ。言うまでもなく、それはリンゴの回転によって可能になるわけですが、実は、この表相の等化によって生まれてくるのが、図1に描いた人間の内面なのです。
このことは、言い換えれば、自他におけるモノの回転の相互了解が3次元空間と時間の発生の契機になっているということを意味しています。時間と空間の中でリンゴが回転しているのではなく、リンゴの回転が自他の間で相互に了解されているから、そこに時間と空間が生じてくるのです。
このとき、持続空間として活動していた自他の奥行きと幅は自他によって等化されてきます。奥行きの同一化が時間を作り、幅側の同一化が空間を作リ出します。ヌーソロジーが「時間とは客観的視線である」というのも、ここから来てます。そして、SU(2)回転の機構の中で、この役割を担っているのが、おそらく、核子(陽子・中性子)です。陽子が時間を作り、中性子が空間を作り出していると思われます。
このSU(2)のトポロジーのカタチは、哲学で言うなら、ハイデガーの「二重襞」や、ドゥルーズの「巻き込みと繰り広げ」といった、外部=内部、内部=外部(包みつつ包まれ、包まれつつ包む)のモナドロジックな無窮運動の最も基礎的なカタチと言っていいものです。
このモナドの運動を垂直的に多重化させていっている精神の運動がわたしたちが元素と呼んでいるものの正体であり、わたしたちが物質的自然と見ているものは、人間の内面側に束縛された意識に映るその射影のようなものに思われます。
外と内の交通路が浮上し始めています。古代の存在論、中世の存在論、近代の存在論、現代の存在論を展開した最良の精神たちの鋭意を継承して、時代なき存在論を復活させましょう。存在論は永遠において思考されなくてはいけません。その思考の歩みにおいて、主客の宇宙は終わりを告げていくのです。
3月 13 2023
ヌーソロジーの存在論の骨子
客観の上に主観が成り立っているとする信仰は未だ根深い。
フッサールが提示した超越論的還元(一旦、客観をエポケーする)の考え方さえ、まったく一般化していない。そんな中でヌーソロジーは主観もエポケーしようという主張をしている。「はぁ?」となるのは当たり前の話。
「奥行き」の開示とはそういう話なのだ。純粋な奥行きを認識に立ち上げたとき、そこには主観(いる)も客観(ある)もない。奥行きは”存在”そのものなのだから当たり前だ。ただ、”なる”があるのである。そして、その最初の”なる”が素粒子に対応してくるのも理の当然というものだ。
素粒子になる………。そこからすべての”なる”が開始される。始源とはそういうものだろう。
ただし、OCOT情報ではこの素粒子の位相は”なる”ではなく”いる”の位相を作り出しているものだという。かれらの存在概念では、現象学に端を発した存在論と同じく、”いるもの”が”なるもの”を通して”あるもの”を作り出すのだが、この最初の”いるもの”を出現させるための機構が「素粒子」だと言うのである。
ヌーソロジーが素粒子を人間の経験的意識を構成するための超越論的な機構として考えるのも、その辺りの事情を組んでのことである。いわゆる「人間の反対の意識」というヤツがこれに当たる。
その設定からするなら、「顕在化」とは、人間の経験的意識が、この人間の反対の意識に当たる超越論的意識と交差を行うことを言う。つまりは、超越論的なものを意識化するということだ。そこで構成されてくる「なるもの」とは、物質的にはもはや素粒子ではなく原子だとOCOT情報は言って来ている。
つまりは、超越論的なものを顕在化させた意識の働きは、時空上では原子として見えているものに当たるということだ。「原子とはヒトの精神」という彼の言葉も、そのような意味合いから発せられたものだと思われる。
原子は原子核と電子が結合することによって生じるわけだが、このことは、彼らにとって、「物の外部が物の内部を見抜くこと」を意味していると言っていい。外部の意識核は電子、内部の意識核は原子核。両者がある意味で等化される状態を原子生成は表現しているわけだ。
プラズマ(原子から電子が剥離した状態)のことを「精神の錯乱」の反映と呼ぶのもそのためだ。代表例は太陽。太陽は水素とヘリウムからなる巨大なプラズマだが、これをOCOT情報は「人間の精神核」とも言う。その理由もなんとなく分かる。実際、人間の意識は物の内部と外部をまったく等化できていない。
その意味で太陽とは、「いる」の位相を作っている素粒子の全体性が集合している場と考えられる。つまり、宗教的表現でいうなら人類の集合魂のようなものである。
キットカット実験の全人類版のようなものを想像するといいだろう。私たちは宇宙という巨大な時空の中で、太陽を中心に地球が回っていると考えているが、ほんとうは、地球(すべての人間)から広がる時空の集合が反転して焦点化したところに太陽が生じているのである。
つまりは、太陽がなければ私たちの意識はない。
最後に、ヌーソロジーの存在論の骨子をもう一度簡単にまとめておくよ。
「あるもの」が「いるもの」を作り出しているんじゃなくて、
「いるもの」が「なるもの」を通して「あるもの」を生み出している。
そして、「いる」は「ある」が再び「なる」の方向へと方向付けられているところに生まれてる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, フッサール, 存在論, 素粒子