8月 19 2021
世界の反射としての人間から世界を反射させるものへ
世界は本当は単純なんだよ。人間は複雑に考えすぎている。世界は自分を反射させて人間を作った。人間にはその反射が見えず、反射後の世界を世界だと思い込み、そこに自我をもち、言葉で世界を固めてしまった。反射が起こる以前の世界に戻ればいいだけ。奥行きはその世界への入り口になっている。
反射の焦点に肉体が構成されているわけだけど、単なる肉体だけで自分を見るなら、それは死体と同じ。人間を物質のみで見るなら、死体と大差はない。生きる肉体が死体ではないのは、そこに奥行きが宿っているから。生きてる人間には常に奥行きが付き添っている。でも、死体には奥行きはない。ここでいう「奥行き」とはシュタイナーのいうエーテル体とほぼ同じ意味。
ヌーソロジーがいう「次元」とはこの奥行きを入り口として活動している人間の魂を形作る持続空間の構成を意味している。「次元」は〈ここ、今、わたし〉の内的な器官とも呼んでいいものであり、この「次元」の活動によって、〈ここ、今、わたし〉の内実が成り立っている。
当然のことながら、今の私たちにはこの「次元」が見えていない。それは休むことなく働いているのだけど、「わたし」の認識に何ひとつ上がることはなく、「わたし」は常にこの次元に反射させられた受動的なものとして生じている。この意味で「次元」は未だ眠ったままだ。次元は未だ「潜在化」している。
原因となるものは結果の世界の中では潜在化する。これは、存在者の世界においては存在は自らを隠蔽するというハイデガーの弁に同じ。
神はお隠れになった―というアレだ。
だから、「我は神なり」などと言って外に図々しく現れてくる神はそのほとんどが偽神だ。神は「わたし」の内の内に隠れている。内の内というところがミソ。そして、内部の内部は外部として現れる。存在の反射光がここに現れるわけだ。
この内部の内部が物質として見えてくることがヌーソロジーでいうところの「次元の顕在化」に当たる。そこにおいて初めて、私たちは精神の外化を果たすことができる。物質と精神の区別が存在しなくなる場所というものが、そこに現れてくるわけだ。外から見ると物質、内から見ると精神―主客のない世界はそのようにしてやってくる。
存在があるためには存在が欠如しなければならない(ブランショ)―であるのなら、「わたし」は一度、奥行き(死)を通して物の内部へと分け入り、そこにおいて他者側の死と出会い、そこから時間と空間自身となって再び外へと現れ出る必要がある。そのような奥行きの振る舞いのプロセスを表現しているのが本来の物質の姿なのである。
反射しか知らない人間にとって、物質は単なる表象でしかない。その意味で、表象とは虚無に響きわたる存在の残響に過ぎない。この残響から身をかわし、一度、奥行きのもとに内部へと分け入り、自らが表象を響かせるものとなって現れ出ること。永遠感覚はそのようにしてやってくる。
9月 9 2021
流れない時間の場所
以前のオンライン講演会で、奥行きが流れない時間としての持続の場所になっていることを分かりやすく図にして説明してみました。一応、ここでは時間の流れを左から右方向で示していますが、これは3次元意識での時間感覚と思ってください。4次元が見えてくると時間は持続の時間で示した矢印の逆方向になります。
このような配置で時間と持続の関係をイメージできるようになると現在と過去が共存している感覚がクリアに意識化されてきます。この現在における過去との共存がヌーソロジーが「いる」感覚と呼んでいるものです。これは、持続に触れていること。つまり、存在(生命)に触れているということを意味します。
ここから一歩進んで持続空間の中に分け入り、その内部がどういう構造になっているかを思考し、それを感覚に上げていこうとしているのがヌーソロジーです。それは具体的には、ヌーソロジーが次元観察子と呼んでいるもので表現されて行きます。
結果的に、そこに生み出されている世界が「なる」の世界へとなって行くとヌーソロジーでは考えています。「モノ」の本性、物自体の世界ですね。
奥行きに持続の位置があることを人間の意識が知ることを、OCOT情報では「方向覚醒」と呼んでいます。これは、精神が奥行きを通して外化し始めるということを意味します。この「方向覚醒」によって、精神と物質が一致した世界風景が徐々に意識に出現し始めるということです。「意識の位置」が見出されるということでもあります。
「位置」というと、普通私たちは空間的な点をイメージしますが、位置とは本来3次元空間上にポツンと打たれた点のようなものではなく、対象を見ることの中に潜む奥行き自身のことを言うのです。私たちは空間に点を見るのではありません。見ること自体が点だということです。そして、それは持続の働きのことでもあるわけですから、そのイマジネーションだけでも、そこでは見るものと見られるものの分離が消滅していることがわかります。
こうした持続としての異空における無時間の力は、時計的な時間と延長的な空間しか知らない物理学の中では運動の関数として記述されるしかありません。持続が時間と空間をベースに記述されている状態と言ってもいいでしょう。それが量子を記述する波動関数Ψの正体と見るのがヌーソロジーです。
そういうわけですから、主客を分離させた認識では量子の正体は永遠につかむことができません。その意味では、量子とは奥行きに潜んでいるひとつの先験的原理であって、科学的、経験的な概念では決してないのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, 奥行き, 次元観察子, 量子