1月 15 2016
独身者は果たして銀河の花嫁をゲットできるのかーーDAIGOと北川景子の結婚に触発されて(笑)
冥王星の役割とは天王星的なものと海王星的なものの差異を乗り越えるところにあると思ってる。言って見れば、存在における父性原理と母性原理を合体させることだ。これは神さまの精子(ロゴス)を神さまが恋い焦がれている人間という場所(コーラ)に神さま自身が送り届けることにほかならない。
ロゴスは当然、男っぽいのだけど、コーラは女の場所のことでもあるのだから、そこに流れ込んできたロゴスに女なるものは戸惑いながらも反応する。この戸惑いの中で変質してくるロゴスが冥王星の力だと思うといい。この力は一見、男っぽく見えるのだが、実はすでに女の体液の中に浸かっている。その意味では、冥王星の力はある種、ユニセックス的なものなのだ。
ヌーソロジーは物理学とか哲学といった、言って見れば男のロゴスをギラギラと照りつかせた部分もあるのだけど、きっちりと存在のヴァギナを狙ってそのロゴスを流し込んでいる。存在のヴァギナってのは奥行きのこと。だから、それは子宮を捉えているわけだ。
だから、女の本能であるマテリアル欲求(産出する欲望)に届くロゴスになっているのかもしれない。「わけがわからないのだけど、なんか面白い」と言って、女性たちがレクチャーに多く集まってくれるのも、たぶん、存在の子宮として働く女なるものの原理がそれを直観してくれているからなんだろう。
この思考のユニセックス感というのを大事にしたいといつも思っている。多くの人は思考のタイプを理数系と文系に分けるけど、女なるものの思考というのはそういった分類とはたぶん全く違ったものだ。それは自然の生産力の本質なのだから、はちきれんばかりのエロスで充満している。理系と文系の思考がシームレスに融合したところにしかこのエロスは発動しない。
受精卵をたった十月十日で胎児にまで成長させていくその調和と美の力の流動性の中にはおそらくなんの戸惑いも存在しちゃいないだろう。その力と同じものが、宇宙全体を貫いて生命として生きている。
創造における根源の場とはドゥルーズ的に言えば、延長(物質世界)と持続(心の世界)の接触の位置である。現代物理学はそれを素粒子に見出した。この場では、常に能動的なものと受動的なものとが、表現することと表現されることの主導権をめぐって互いの力を競い合っている。言い換えれば、そこには、人間を超え出ていくのか、それとも人間に止まるのかという、人間の意志の逡巡が起こっている――。
いや、「競い合う」というより「共存し合っている」といった方がいいのかもしれない。「共存」というからには、それらは一つの半透膜のようなものを境にして互いを交換し合っているとも言い換えることができる。その様子を現代物理学は〈x,p〉=xp−px=iℏという位置と運動量の交換関係として提出してきている。位置xを物質世界、運動量pを心の世界と考えるといい。iは虚数単位で、ℏは量子力学において最も重要な定数とされる数のことだ。
物質と精神の間を遮っている半透膜を意味するこの「iℏ」とはわたしたちの純粋知覚量のようなものと考えるといいだろう。瞬間における世界の見えのようなものだ。だから、これは「見る」ということが起きている純粋な視野膜のようなものとも言える。あのデュシャンがアンフラマンス(超薄膜)と呼んだものに等しい。独身者と銀河の花嫁とを遮る微細な膜だ。
延長としての奥行きを持続としての奥行きへと切り替えるためには、この微細な膜を破らなくてはいけない。この膜に触れることのできる思考は、およそ存在するあらゆる思考の中でも最も簡素なものである必要がある。それはその思考が、宇宙の始まりの思考、グノーシス的に言うなら、最初の思考(プローテンノイア)であるからにほかならない。
このプローテンノイアの力によって、無限大としての男の力は、無限小という女のもとに舞い降りることができるのだ。
おいで、景子。今夜は眠らせないよ。(⌒▽⌒)
5月 17 2016
受肉したロゴスと切断者としてのロゴス
ヌーソロジーは「見られている空間」と「見ている空間」の差異を指摘し、前者から後者への反転を執拗に促しているわけだが、これはキリスト教的に言うなら「受肉したロゴス」から「切断者としてのロゴス」への質的変容を迫っていると言い換えてもよい。
人間の肉体は創造空間においては創造の完成と始源の結節のようなものとしてある。イエス・キリストが「受肉したロゴス」と呼ばれるのも、本来、人間の肉体自体が創造的知性のロゴスのかたまりのようなものだからだと考えるといい。物質化は「見られる」という受動性先行の中において行われていく。
この受肉したロゴスが受肉させるロゴスへと変わる、つまり、完成が始源へと相転移を起こすことをクリスチャンたちは救済と呼んできた。
―父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今御前にわたしを輝かせて下さい―
< ヨハネの福音書第17章 >
オメガを新しいアルファへと変えること。
ここに出現するのが切断者としてのロゴスと考えるといい。ドゥルーズなんかが仕切りに言っている「差異」という言葉もこうしたロゴスの突然変異体のことを意味している。「差異とは所与がそれによって与えられる当のもの」、つまり、与えられているものを与えているものを見出せ、ということなのだ。
人間が言葉を持って文明と複雑な社会システムを作り出しているのは、この受肉したロゴスの完成体である人間が再び切断者としてのロゴスへと成長していくためのプロセスとして生きているからである。この一点において、人間は他の動物たちとは目指す方向が全く違うのだ。つまり、人間において宇宙の方向が二つに切り裂かれているということ。
だから、人間は他の動物たちのように自然と調和して生きることは決してできない。自然と調和したいのなら人間自身が差異化するしか道はないだろう。宗教(religion)の語源はre(再び) ligion(結ぶ)だが、人間に宗教があるのもロゴスが常に無限を乗り越えていく無限を内包しているからだ。
進化論のような人間観ではなく、この「結節」としての人間観を取り戻すこと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, ロゴス