3月 7 2007
365と260 (2)
マヤの神官たちが神事のために用いていたと言われる神聖暦=ツォルキン。ツォルキンが示す260という周期性は一体、何を意味するものなのだろう。マヤ人たちは、このツォルキンと1年365日の暦(ハアブ暦)を複合的に用い、73 x 260=52 x 365という52年周期のカレンダー・ラウンドと呼ばれるシステムを採用していた。ここに含意されている意図はかなり深遠なもので、彼らが52年の中に何を見ていたのかは、ヌース的に分析してもまだはっきりしたことは分からない。ただ、ヌース理論が用いる観察子の概念を通して考えると、この「260」と「365」という数が、宇宙の絶対的二元性を象徴するキーナンバーとして登場してくる仕組みが見えてくる。この絶対的二元性とは、すべての創造を終えた精神が経験した対化の等化数と、その反映として現れる始まり以前のカオスを始まりの位置に戻すための回転数である。
ここでいう「すべての創造を終えた精神が経験した等化の数」とは、タカヒマラにおけるΩ13〜14、Ω*13〜14というキアスム(双対化された太陽系精神)をすべて統一した精神が持っている等化数のことを意味している。太陽系精神はΩ13〜14までの構造を形作るために、次元としては全部で20の等化作用を持たなくてはいけない。これは大系観察子Ω1という単位が次元観察子ψ7と同等の意味を持つために、結果的にΩ14領域まで、合計7+13回の次元等化を必要とするからだ。この7+13=20回という等化数を一つの単位として、今度は、精神はΩ*側との等化運動を進めていく。
Ω*側とは反太陽系のこと意味するが、これは人間の意識には太陽系外部の外宇宙として見えている世界に対応している(宇宙には太陽系しか存在しないというヌースの絶対的テーゼを思い出そう)。星座や銀河系や、銀河団等の深宇宙が持つ階層性のことである。これらはヌース的には太陽系の外部というよりも、裏返しにされた太陽系の姿である(たとえば恒星1個はΩ*5に対応し、銀河系はΩ*7に対応している)。
この反太陽系領域の等化運動はΩ*13(おそらく特異点と関係している)で完成を見るが、この完成にまで要する対化の等化数が20×13=260として表されると考えていい。前回、意味ありげに書いた「下に20、上に13」とは、このようにタマヒマラ構造の一周目に要する次元等化数「20」と二周目の次元等化数「13」を意識してのことだった。
一方の365のシステムの方は260のシステムの全く逆側に存在している精神の影側の世界の律動と関係がある。28という数は、もちろんΩ13〜14、Ω*13〜14という大系観察子の双対システムに由来するが、このシステムはちょうどカバラにおけるセフィロト全体が一つのセフィラー(マルクト)へと収縮、収斂するのと同じように、Ω13〜14、Ω*13〜14という精神構造全体における大系数を地球の中に「28」として投影させ、「月」の公転・自転の中で「1」として取りまとめさせる。かなり抽象的な表現で申し訳ないが、これがヌース理論が考えている月の1公転・自転に対する地球の28自転の本質的意味である。このような理由から、ヌース理論では月は観察精神の投影という意味で「反精神」と呼ばれる。つまり、月とは精神構造におけるすべての対化を等化した精神の影のようなものなのだ。月には前宇宙の創造の記憶がすべてコンパクト化されて眠っており、それは人間の外面の意識に集約され、物質的には人間の肉体の総体と同じ次元で活動している。
その意味で28×13の「13」とは眠れる月の記憶を覚醒につなぐための象徴数となっている。28がオリオンの下次元に生まれるプレアデスの象徴数とすれば、28×13の「13」とは、プレアデス領域での精神作用の全体をシリウス領域(中間領域)へとすべて接続させるための等化運動の数である。これによって1年がシリウス領域の等化作用の象徴として、オリオン領域の基本等化単位として発振する——。
コテコテの神秘学的記述になってしまったような。。あわわ。
11月 4 2008
BETWEEN TIDES(ビットウィーン・タイズ)
マヤ暦関連の書籍を数冊出している高橋徹氏との対談の企画が決定した。主催者の意向でなるべく少人数でやりたいということで、小田急線の狛江駅のそばにある泉の森会館という小さなホールが会場に選ばれた。日時は12月20日の土曜日、午後6時半から9時半まで。3時間の長丁場だ。高橋氏とお会いするのは実に5年ぶりぐらいだろうか。きっとスリリングなイベントになるに違いない。今から楽しみでならない。
イベントの詳細を知りたい方はこちらのページへ→http://www.point0.jp/symmetry/exhibition.html
高橋氏との初めての邂逅は確か1992年だった。そのときの様子は『2013 : 人類が神を見る日』に詳しく書いたが、当時の僕にとってこの邂逅は実に鮮烈な体験だった。ニューサイエンス系の知識一辺倒だったその頃の僕に、ブラバツキーやシュタイナー、さらにはグルジェフなど、20世紀思想の地下水脈とも呼べる世界の存在を教えてくれたのが彼だったからだ。
当時、高橋氏の研究はマヤ暦(ツォルキン)を中心としたものだったが、マヤ暦が巷でブームとなるにつれ、本人自身、マヤ関連の動きからは身を引いていったようだ。その当時,いつも「マヤ暦のメッセンジャーとしての高橋徹という肩書きは持ちたくない」と話していたっけ。彼のオリジナル研究は太陽系の各惑星周期と人間の無意識構造の発展に潜む関係性を調べることにあった。占星学に言うように、人間の無意識構造と太陽系構造の関係をまずは自明のものとし、さらにそこに、公転や会合などの惑星周期と歴史的無意識の進展関係を時間的な比率の観点に立って構造的に明らかにしようとする野心的研究だ。彼の研究が現在どこまで進んでいるのかは僕は詳しく知らないが、当時でさえかなり精緻な理論構築に驚かされたものだ。今はおそらく常人の想像力が及ばないところにまで進んでいることだろう。
あれから20年近くの月日が流れたが、彼の思考空間にヌーソロジーの入射角からアクセスできるかどうかはまだ不明だ。素粒子空間と太陽系空間の連結のルートがまだよく見えてこないからだ。ヌーソロジーの思考が太陽系空間に出て行くためには、身体空間の射程をまずは明確に捉える必要があると考えている。身体と大地は単なる物質的なエネルギー循環だけではなく、意識的にも分ち難く結びついており、その大地が一つの球体として出現している場所が太陽系空間なのである。実存的地球とでも言えばいいのだろうか、人類全体が意識している身体空間の在り処を僕らは深く掘り下げて思考する必要がある。回転が精神の象徴であるならば、太陽系とは人類全体の身体空間の奥にさらなる深みを持つ惑星的身体が具備している精神の表現の場として出現してくるはずである。
その意味から言えば、現在の科学的な太陽系観は矮小極まりないものに堕している。コペルニクスの地動説以降、科学の目は常に世界視線となって地上を俯瞰するものとなってしまった。この世界視線が持った眼差しは、普遍視線(地上での人間が持つ等身大の視線)の中に育まれた人間の内在野での生活をことごとく隠蔽し、ごく表層的にしか事象を捉えることができていない。物質は常にその外皮に置いて分析され、物質の内的生活など存在しないと言わんばかりに、ただただ物理化学的知識のもとに記号の帝国を作り上げているだけだ。この記号の多様性は確かに饒舌だが、いかんせん概念がない。機械的な思考だけがまるでスケートリンクの上を滑る石ころのように単純な軌跡を描いて反復しているだけだ。そんなつるっ禿のような空間に太陽系を浮かべて分析したところで、太陽系はその深み方向にある本質を決して露にすることはないだろう。
内在野に存在するn次元多様体として太陽系を捉えること。精神に内在する差異の連動系として諸惑星の回転を捉えること。これは身体空間の延長に地球空間や月空間を感じ取り、そこに生まれてくる身体的意義を通して、諸惑星の調和的運動を思考していくことに他ならない。満月や新月とは何なのか。白道とは黄道とは?そして、太陽はなぜ核融合の場となっているのか——etc。
こうした問題まで語り合えるかどうかは分らないが、空間を思考することと時間を思考することの対称性が垣間見える場所が作れれば、まさに「BETWEEN TIDES」というタイトルにふさわしいイベントになるだろう。ぶっ飛ばしまっせ!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 1 • Tags: マヤ暦, 人類が神を見る日, 素粒子