9月 11 2015
眼差しの場の量子論
生命が活動する空間を知るためには「見ること」と「見られること」の違いをしっかりと認識に上げることが必要だよ。「見ること」においては自分の顔は見えないよね。そこには純粋な経験があるだけ。自分が他者と同じように一まとまりの身体を持っている存在であるという認識は「見られること」からやってくる。
自我というのは常にこの「見られること」をフランチャイズにしている。つまり、自我は他者の眼差しに依存してこの世界にやってきたということ。だから、自我が日頃、意識している空間は他者が見ている空間をベースにしていることになる。これが外在世界というやつだね。そして、人間はこの外在世界のイメージを拠点にして、自分が「見ること」をも概念化している。「私が~~を見る」という表現自体がそういった概念で成り立っているということ。これがヌーソロジーのいう人間型ゲシュタルトというヤツだね。
悲しいかな、人間という存在は――初めに言葉ありき、言葉の命は光であった(ヨハネによる福音書)――というように、他者の光の中に埋もれていて、自分の光をまだ見れていないんだよね。ほんとうは「見ること」の方が先にあったにもかかわらず、「見ること」が「見られること」の起きている空間の中に沈んでしまって、無意識化してしまっている。
ヌーソロジーが「奥行きの覚醒」と呼んでいるものは、この最初に存在していたと思われる「見ること」が起きている空間を想起することなんだよね。フロイトが「幼年時代はもうない」と言うときの、その幼年時代のことと言ってもいい。「見られている」ことが起きている空間は3次元空間だけど、「見る」ことが起きている空間は3次元なんかじゃない、それを思い出せ!!ってことなの。
意識というのは常に志向性を持ってる。これをベクトルのようなもの(スピノル)としてイメージしてみるといいよ。見られるベクトルと見るベクトルというのは方向が全く逆なことがすぐに分かるよね。ここで、意識のベクトルも回転の渦の中に立ち上がってくると考えてみよう。つまり、〈見る―見られる〉という双方向のベクトルの廻りには互いに逆回りの渦が巻き起こっているということなんだ。
全世界共通、時計の針は右回りしているよね。実はこれが「見られること」を立ち上げている渦なの。時間の方向と言ってもいい。カタカムナでいうならばこれはサヌキ(右旋性)だね。男性性の力だってこと。このとき、アワ(左旋性-女性性)は文字盤として働いている。つまり、針が止まっていると考えれば、文字盤が左回りに回っているということ。文字盤は経過する時間ではなくて、それを支えている持続を意味していると思うといいよ。時間の流れを把持しているもののことだね。
見られる空間は右旋性、見る空間は左旋性。目の前で右巻きの渦を作ればその回転軸は自分の方向に向いていて、左巻きの渦を作れば、それは奥行き方向に向かっている、といったようなイメージだね。
ただ、ここで気をつけなくちゃいけないのは空間には右手系と左手系があるということ。これは他者空間と自己空間そのものと言っていいんだけど、人間の空間認識はこの区別が全くできていないんだ。物理学者だって、最初に座標系を決定するとき、これを任意に規定している。ひどすぎる。
自己の空間は左手系。そう思うといいよ。
左手で「Good!」のサインを作り、親指を自分の方に向ければ残りの四本指は右巻きに巻いていて、奥行き方向に向ければ巻きの方向が左巻きに変わるよね。自己から見た他者側のそれは右手で同じことを繰り返せばOK。
見られることは当然、他者側の見ることと一緒になって働いているから、左手の親指と右手の親指が両方とも自分の方を向くこととして表される。実はこうした自他における意識の志向性の出来事がミクロの領域で見えているのがディラック場というヤツなんだ。ディラック場では物質粒子の右巻きスピンψRと左巻きスピンψLというのが活動していて、それらがアイソスピン空間というところで混じり合っている。
「他者の眼差しによって、自我が意識される」というのは、この量子論的文脈に沿って表すとψL†ψRってことになる。ψL†(「プサイエル・ダガー」と読む)というのは、自己が見られるという意味だと考えるといいよ、他者側の「見られる」は同様にψR†ψLとなって、双方を足し合わせるとψL†ψR+ψR†ψLとなるのが分かるよね。要は見られるもの同士の結合をこの式は表しているってこと。
ディラック場では、実はこの形式で構成されているのが「時空」とされるんだよね。関係性を少し考えればすぐに分かってくるよ。渦の巻き方向が互いに相殺されて、方向性も相殺されて、自他のそれぞれ意識の志向性が見えなくさせられるような仕組みになっている。これがヌーソロジーでいう自他における「中和」の結合状態を意味していて、物理学的には「スカラー」として表現されるものなんだ。「スカラー」というのは「大きさだけは持っているが方向性がない」というもの。つまり、時空。
「方向性なきこの時空」から出るためには、再度、目の前の見えない渦に意識的になって、自らが渦を作り出していかなかいとね。それによって、時空は自他相互の二つの空間へと分解していくよ。それができて、ようやく本来の見ることが起きている内在性の空間を自分の意識によって切り開くことができるようになる。
このへんのことは前回の東京レクチャーで話したことなのだけど、そのときの図を赤ちゃんバージョンで一緒にアップしておくね。自我(見られることによって生まれる自己)がサヌキの産物だということが一目で分かるのではないかと思うよ。皆も、一度、この空間に潜む見えない渦について考えてみてね。
この渦が生命だから。
5月 20 2016
女なるものへの生成変化―
人間という生き物はどうしても意識に起こっている出来事のすべてを「自分」という枠の中に括りたがる習性がある。いわゆる人間としての自己意識というやつだ。しかし、実はこの自己意識というものをリードしていっているのは精神的個というよりも社会的個と言った方がいい。
わたしは父でなければならない、母でなけれではならない、教師でなければならない、上司でなければならない―etc。ポジションは何でもいい。言葉の中にしか生きることのできない人間はこうしたポジションを確立することで自らの個体性を確保する。しかし、それは同時に精神的個が剥奪されている状況でもあるのだ。
現代人が「私的」の意味でよく使用するプライベート(private)の語源を調べてみるといい。この言葉は本来、「(社会的立場を)奪われたもの」といったような否定的なニュアンスで使われていた。肯定的な意味に転じたのはおそらく近代以降のことだろう。
社会的立場を持たなければ人間とは呼べない―人間には相変わらず、こうした古い父性的な考え方が優勢で、そこに個体のアイデンティティーを置きたがる習性がある。人間の個体性が名にあり、共同体が名を与えるのであるから、それは当然の成り行きと言ってもいいわけだが。
こうした類いの自己意識を存在論的病の形態として断罪したのがニーチェだった。つまり、ニーチェは普通にいう人間の自己意識を力の反動=否定性として生じた受動的ニヒリズムの産物と考えたということだ。この中で精神的個は逆説的な意味での[private]、つまりは否定的なものを剥奪されたもの、として細々と生きている。
フロイトも同様に社会を原抑圧の場と考え、この否定的なものを剥奪された[private]をエスと名付け、「エスがあったところに自我をあらしめよ」と宣言し、精神分析の手法を打ち立てた。
実のところ、社会的個に同一化を余儀なくされた精神的個の力ほどたちが悪いものはない。というのも、この力は否定性を否定しようとする二重否定の情念としてのたうちまわるからだ。自分の人生を呪うことがそのまま社会を呪うことに直結する病の病。いわゆる、あらゆる「悪」の生産様式がここにはある。
しかし、一部の宗教のように「個は幻想です」などと言って、社会的個の意識をマヒさせようとしてもそれは不可能だろう。わたしたちがまず手をつけるべきは、社会的個と精神的個の明確な区分である。それができて初めて、この主従関係を根底からひっくり返す根源的反転性を見出すことができる。そして、こうした思考だけが、肯定に基づいた世界の産出を可能にする。
そして、ここからが一番大事なところ。
この根源的反転性は自我意識の中には決して回収されてはならないし、また、回収できるものでもない。だからこそ、わたしたちは「全く別物の意識」を現在の個的意識と並行させて作り出していく必要があるのだ。彼を決して「わたし」という人称の内に括ってはならない。そして、この名のない彼を忍耐強く育てていけば、やがて彼は人間を母と慕うほんとうの意味での神へと成長していくはずだ。宇宙的胎児を新しく身籠ること。母親になること。
女なるものへの生成変化―とは、このことを言う。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: ニーチェ, フロイト