3月 8 2016
ヌーソロジーのいう「変換人(トランスフォーマー)」とは何か
「変換人型ゲシュタルト」って何?とよく聞かれる。これは一言で言うなら主客一致の意識状態に生み出されてくるゲシュタルトと言っていい。ゲシュタルトというのは認識形態のような意味だから、要は、見ているものと見られているものの分離がない意識状態における認識形態ということにでもなろう。
普通は、見ているものと見られているものの分離がない意識状態なのだから、そこに認識なんて起こるはずがなかろう、と考える。だから、生半可な主客一致の思想は、「見るものとは見られるもののことである」とかクリシュナムルティっぽいセリフを吐いて、「真我」などといった大層な表現で思考の停止を強要する。
はっきり断言しておきたい。日本人はこの東洋的ボケに騙されてはいけない。実は、そこから本当の思考、Penser du Japon―[日本の思考]が始まるのだ。
思考するものと思考されるものの一致において出現してくるもの。それは哲学の伝統では「イデア」と呼ばれる。だから、「変換人型ゲシュタルト」とはイデアの認識形態ということになる。本来の思考とはこのイデアを巡って活動している力の運動のことをいう。
東洋的ボケがまずいのは、思考されるものの空間と思考するものの空間の区別が全く見えていないところにあると言っていい。それを一足単に「色即是色、空即是色」なんて言ってしまうものだから、結局分かったような分からないような話になる。こういった曖昧な東洋とはオサラバしよう。仏教の弊害だ。東洋的ボケでは決して西洋的ツッコミは納得しないのだ。
その意味で、日本古来の精神は仏教の中にはないと言っていい。Penser du Japon―[日本の思考]は本来、結び(産霊)の思想の中にあるのだ。それは創造空間の思考であり、これはボケることとは何の関係も持たない。
わたしたちが物質と呼ぶ客体世界は産霊の結果として出現しているのであり、これらは、創造を思考するものたちの空間が思考されるものの空間の中に客体として出現しているものなのだ。
思考するものたちの空間は持続のもとに収縮し、思考されるものたちの空間は延長のもとに弛緩している。ヌーソロジーでいう等化と中和の関係だ。
この二つの空間の関係を認識にありありと浮上させていく方途がヌーソロジーが「変換人型ゲシュタルト」と呼んでいるもののことと思うといい。
物質の根底が素粒子という複素空間の構造体で成り立っているのも、複素空間が思考するものの空間になっているからだ。物質とはその意味で、思考するものが思考されるものの空間に自分自身を思考されるものとして表現したものである。
見るものと見られるものの間にあるこの仕組みを、もうすぐ多くの人が当たり前のことのように語る時代がやってくるのではないかと勝手に想像している。その時は東洋的ボケも西洋的ツッコミも役目を終え、東洋でも西洋でもない世界が出現してくることだろう。個人的には、その大地のことを日出づる国と呼びたいところだ。
OCOTのいう変換人(トランスフォーマー)とは、その意味で言えば、この日出づる国の住人たちのことを言う。それは「地上の事物の本質を私たちの内部に眼に見えない形で再び立ち上がらせることを使命として生きる者たちのこと(リルケ)」だ。世界を「変形(トランスフォルム)」するときがやってきている。その足音は多くの人たちの心の中に声なき声となって響いてきているのではないか――。
6月 2 2017
新しい場所論を!!―無頭人たちが生きる場所
目の前の奥行きには、「収縮としての奥行き」と「弛緩としての奥行き」が重なり合って存在させられています。例のバイスペイシアル認識というやつですね。前者が虚軸で、ベルクソンの言葉でいうなら純粋持続(無意思的記憶)の役割を担っており、後者が実軸で、こちらは純粋知覚(瞬間的知覚)の役割として働いています。
今のわたしたちは、前者について全く無自覚で、後者だけで世界を見ているということが分かります。虚軸が真横にずらされて、奥行き方向に実軸=幅しか感じ取ることしかしていません。「他者視点から世界を見る」という他者-構造に空間認識が支配されて、自己のアイデンティティを保証している持続空間が見えなくなって、無自覚のまま無意識的に働いているわけです。
これからの時代、この是正が始まっていくと思います。世界の土台への沈み込み=巻き込みの方に意識が方向性を変えていくということですね。この反転は、人間をマクロ空間に生きる物質的生き物から、ミクロ空間に生きる霊的生き物へと変態させ、物質世界を内部側から見る知覚(正確には超感覚的知覚)を発現させてきます。
幅認識で世界を構成している意識の組織化が経験的自我で、奥行き認識で世界を構成している意識の組織化が超越論的自我と考えるといいでしょう。後者の組織化が認識に浮上することにより、意識は相関主義が形作る円環から逃れその外部へと出て行きます。それがドゥルーズがいうところの「差異化」です。
もちろん、こうしたバイスぺイシアルな空間認識を達成することがすべてというわけではありません。重要なことは空間認識がそのような変化を見せ始めたときに、この差異化していく空間思考にどのような新しい空間感情が伝播してくるのか―。思考者はその共振に常に注意を払っていくことが重要です。
この世界認識の型(ヌーソロジーでは「トランスフォーマー型ゲシュタルト」と呼んでいますが)は、シュタイナー風にいうならば、イマジネーション認識の土台となるもののように思えます。人間の経験的自我が生み出すほとんどの意識的内容物が、時間と空間という感性における直観形式を土台にした培養物として生まれているように、この新しい世界認識の型は霊我(シュタイナーのいう高次の自我)における直観形式を決定づけ、その形式に合わせた新しい超感覚的な知覚的内容物を用意してくるのではないかと思っています。
その意味で言えば、トランスフォーマー型ゲシュタルトとは今までの時間と空間に変えて、無時間世界(持続空間)の中において、新しいトキとトコロを用意する場所論のようなものとも言えるのではないかと思っています。
素粒子とは、このトキトコロの場所が「響き(霊引き)」として存在させられているものであり、この「響き」を聞き取るところにわたしたちの意識が発生しているとも言えます。
そして、そのトキトコロの響きを追って、そこに響きの起源となっている「響かせているもの」の空間形態をトレースしていく純粋思考の力がそのまま元素体の生成へと繋がる仕組みになっているようです。そのトレースをケイ素体まで導くのが、OCOT情報がいうところの「シリウス」です。14のイデア空間です。
かなり、ブっ飛んだ話をしている自覚はあります(笑)。しかし、奥行きが見えてくれば、この話は単なるトンデモだけでは片付けられない、「ありうる」「ありうべき」話として聞こえてくるのではないかとも思っています。未だ誰も超越論的なものの在り処について明確に指し示した人はいないわけですから。
無頭人(アセフェル)のゲシュタルトが目撃する新しい場所。それを作れ、そうすれば、彼はやって来る―。フィールド・オブ・ドリームスのアレですね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 09_映画・テレビ • 0 • Tags: OCOT情報, シュタイナー, トランスフォーマー型ゲシュタルト, ドゥルーズ, ベルクソン, 奥行き