1月 5 2018
スピノル・ストーカー
今回はスピノルの話。(スピノルとはクォークや電子など、物質を作っている粒子の角運動量ベクトルのことです)
何でスピノルにこんなにこだわっているのか。それはスピノルが物理学では物質を作っている根底的な「型(かた)」となっているにもかかわらず、未だにそれが何かについての議論がどこにも見られないからだ。言葉を換えれば、僕たちは未だに物質の本性を何一つ理解していないということ。
人間型ゲシュタルトは物質を対象としてしか見れない。だけど、反転認識が芽生えたトランスフォーマー型ゲシュタルトにとっては、物質は対象ではなく自分自身の精神として見えてくる。つまり、そこでは主体と客体の分離が消失する。主客分離以前の原型的世界がそこに、再び展開されてくるというわけだ。
その世界へのゲートをくぐるために、このスピノルの描像は避けては通れない。言わば、スピノルに対する理解が、主客一致の認識という狭き門へと入るための絶対条件と言っていいものになっていると言えるだろう。
スピノルは内部空間と呼ばれる時空とは別種の空間で回っている。その回転がいつも言っているSU(2)(エスユーツー)というものだ。これに対して僕らが普通慣れ親しんでいる回転はSO(3)(エスオースリー)、いわゆる3次元空間での回転だ。SO(3)とSU(2)は似ているのだけど、決定的な違いがある。それは、SU(2)では回転の軌道がメビウスの帯のように捻れていることだ。下のアリさんの図で確認してほしい。
だから、スピノルはベクトルのように一回転しても元の場所には戻ってこない。ウラ側に回る。元の位置に戻ってくるためにはもう一回転しないといけない。720度回って対称性を取り戻すわけだ。
直感的に分かると思うのだけど、メビウスの帯では帯の環が作る内部と外部が捻れによって等化されている。つまり、内部=外部、外部=内部が成り立っている。SU(2)の形は、それが球面として成立している。つまり、球体の内部と外部が捻れていて、もはやそこには球体の内部と外部の区別がない(こういう形を数学では「3次元球面」と呼びます。3次元すべての方向が円で繋がっているということ)。
この認識がトランスフォーマー型ゲシュタルトのベーシックとなるのだが、このような空間認識が副産物として何をもたらしてくるか大方の予想がつくのではないだろうか。
すなわち、物体の内部/外部概念の無効。従来の主客概念の無効。パラドクスの許容等、現在の人間が依拠している容器図式が持った同一性認識をことごとく解体させていくわけだ。
現在の人間に決定的に欠落しているのは、空間に内在しているこの捻れに対する知覚力だ。それは、自分自身の位置を空間の中に同居させていないことに起因している。いつも言っているように、世界を対象としてしか見ていないということだ。
自分自身をも含めて世界を論じていくためには、観察位置としての無限遠点の存在を空間の中に見なくちゃいけない。
無限遠点が空間の中へと降りてくれば、スピノルの謎は瞬く間に氷解していくことだろう。それは同時に、私たち自身が初めて物質の秘密に触れる日でもある。まさにベンテコスタの風景がそこに展開されていくわけだ。
ヌーソロジーの空間認識では、このSU(2)とSO(3)は人間の回転認識における上次元と下次元の関係にある。これは、人が物体の自転を認識しているその背後でSU(2)が人知れず活動しているということを意味しているのだが、君にはそれが感知できているだろうか?(下動画参照)
できていれば、君はすでに4次元認識の達成者、ということになるのだが。。
7月 11 2018
時代なき存在論の復活を!
人間の内面においては観測者はリンゴと同じように単なる物体として認識されています。このとき、観測者から広がる世界が時空(局所座標系)に当たります。
一方、人間の外面では奥行きは持続空間ですから、時空の広がりを一本の線分の中に束ねてそのまま縮んでいます。物理学に対応させると、これがスピノル(物質粒子のスピン)に当たります。
スピン(ヌーソロジーでは垂質と呼びます)はそのまま表相の次元(リンゴの見えを作っているリンゴの直径部分)に重なり合っています。なので、リンゴを囲んで複数の他者がリンゴを見ているとき、そこでのリンゴの回転はそのままスピノルの回(SU(2))を意味することになります。ヌーソロジーでは、この回転のことを「表相の等化」といいます。自己と他者の表相を等化するという意味です。
「表相の等化」とは分かりやすく言うと、自他が表相を共有し合うということです。たとえば、リンゴの一部分にキズがあるとき、そのキズの存在を自他が互いに了解するということ。言うまでもなく、それはリンゴの回転によって可能になるわけですが、実は、この表相の等化によって生まれてくるのが、図1に描いた人間の内面なのです。
このことは、言い換えれば、自他におけるモノの回転の相互了解が3次元空間と時間の発生の契機になっているということを意味しています。時間と空間の中でリンゴが回転しているのではなく、リンゴの回転が自他の間で相互に了解されているから、そこに時間と空間が生じてくるのです。
このとき、持続空間として活動していた自他の奥行きと幅は自他によって等化されてきます。奥行きの同一化が時間を作り、幅側の同一化が空間を作リ出します。ヌーソロジーが「時間とは客観的視線である」というのも、ここから来てます。そして、SU(2)回転の機構の中で、この役割を担っているのが、おそらく、核子(陽子・中性子)です。陽子が時間を作り、中性子が空間を作り出していると思われます。
このSU(2)のトポロジーのカタチは、哲学で言うなら、ハイデガーの「二重襞」や、ドゥルーズの「巻き込みと繰り広げ」といった、外部=内部、内部=外部(包みつつ包まれ、包まれつつ包む)のモナドロジックな無窮運動の最も基礎的なカタチと言っていいものです。
このモナドの運動を垂直的に多重化させていっている精神の運動がわたしたちが元素と呼んでいるものの正体であり、わたしたちが物質的自然と見ているものは、人間の内面側に束縛された意識に映るその射影のようなものに思われます。
外と内の交通路が浮上し始めています。古代の存在論、中世の存在論、近代の存在論、現代の存在論を展開した最良の精神たちの鋭意を継承して、時代なき存在論を復活させましょう。存在論は永遠において思考されなくてはいけません。その思考の歩みにおいて、主客の宇宙は終わりを告げていくのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), スピノル, ドゥルーズ, ハイデガー, モナド, 存在論