1月 21 2019
【シュタイナー思想とヌーソロジー】ピックアップ解説 5
シュタイナー思想とヌーソロジー本の解説5回目。
【シュタイナー思想とヌーソロジー】(福田パート)
霊的知覚の最初の兆しは、まず眠りの変化として現れます。なぜかと言うと、これは眠りの本質に関係しているのですが、人間の眠りとは、実は人間の四つの要素ある自我、アストラル体、エーテル体、肉体の内、自我とアストラル体がエーテル体と肉体から離れ、高次世界へと上昇していくというプロセスなのです。ですから、夜ベッドの上で眠っている時は、我々のエーテル体と肉体だけがベッドの上に残されており、自我とアストラル体は高次世界へ上昇しているという状態にあります。p.106
ヌーソロジーで言うと、覚醒時と睡眠時は意識の方向が真反対に向いています。覚醒時は人間の意識は付帯質の外面で活動しており、睡眠時は付帯質の内面に方向を向けています。つまり、起きているときと眠っているときとでは、存在に対する意識の方向性が相互に反転しているのです(下図参照)。
【シュタイナー思想とヌーソロジー】(福田パート)
ではなぜ、夜の眠りの中で我々は意識を失うかというと、現在の我々には、今説明してきている霊的知覚器官が形成されておらず、眠りの中で上昇している霊的世界を知覚することができないからなのです。p.106
ここでシュタイナーのいう「霊的知覚器官」の形成が、ヌーソロジーでいう付帯質の内面の顕在化に当たります。顕在化は次元観察子によって行われていくので、観察子自体が霊的知覚器官と言っていいのかもしれません。付帯質の内面が顕在化を起こした空間はシュタイナーのいうエーテル界に当たります。
ヌーソロジーの思考感覚から言わせていただけるなら、エーテル界とは人間が自分自身の自我を構成していた無意識の空間構造を高次の対象として認識していく世界のことです。哲学の言葉で言うなら、超越論的なものの構成を経験していく超越論的経験論(ドゥルーズ)の領域です。
1月 22 2019
【シュタイナー思想とヌーソロジー】ピックアップ解説 6
シュタイナー思想とヌーソロジー本の解説6回目(最終回)。
・人間の脱中心化における二つの方向について
【シュタイナー思想とヌーソロジー】(半田パート)
科学的な認識の最大の誤謬は、自然界の中に見られる多様な現象があたかも被造物の歴史の中で作り出されたかのように錯覚していることです。p.306
シュタイナー本には書かなかったけれど、この問題を改めて思想のテーブルにあげたのがメイヤスーの「祖先以前性」に関する議論だね。人間が登場する以前の世界について人間はどう考えればよいのかという問題。科学は物的証拠からその世界について、あたかもそこに居合わせたかのように語るわけだけど。
果たしてそれは本当なのか。ここには物質が先か、精神が先かという伝統的な哲学的難問が顔を出してくる。哲学者は科学的な言明はあくまでも間主観的な判断と見なして、相関主義的立ち位置を崩さない。その曖昧さにツッコミを入れたのがメイヤスー。「46億年前に地球が形成された。」のは本当か嘘か?
ヌーソロジーから言わせてもらうなら、この選択は哲学者にとっての踏み絵と言っていいものじゃないかね。そんな言明は「嘘っぱちだ!」と言わないとダメだよ。言えなければ哲学者じゃないし、哲学の存在意義もなくなっちゃう。
メイヤスーは、哲学は相関主義(現象と人間の思考は表裏一体でくっついてるとする考え方)から脱してコぺルニクス的な脱中心化に対して忠実であるべきだ(「本質を外に見ろ」ということ)とハッパをかけてくるんだけど、この脱中心化の方向に物質と精神の二つの方向があることに気づいていない。それこそ、これはシュタイナーが言ったことでもあるんだけどね。
「ある現象領域の本質とそもそもかかわりのない思考パターンにとらわれていたなら、あらゆる知識を総動員したとしてもうまくいくはずがない。たとえばそのようなことは、太陽に生起している事象の中へ地球空間の理念をそのまま持ち込もうとするようなときに起こる。」―『シュタイナー思想とヌーソロジー』p.484
地球が中心ではなく太陽が中心になったこと、それはそれでいい。しかし、メイヤスーのいうコペルニクス的転回(科学的思弁への移行)のイメージは、単に地球空間の理念をそのまま太陽空間の理念に引き写しただけで、太陽さえも物質的な世界として映し見ている。
カントのコペルニクス的転回(主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従うとする、従来の考え方に対する反転した考え方)をプトレマイオス的反転と揶揄するメイヤスーは、カントが産み出した超越論的哲学が精神の方向への脱中心化の萌芽であることを見抜けていない。シュタイナーの表現で言うなら、カントの「超越論的」という概念は「太陽空間の理念」を発現させるための礎石となるものだ。
その意味で言うなら、近代に起きたコペルニクス転回は人間の意識の位置を、物質と精神という、それぞれの方向へと方向づけるための出来事だったのだと言っていいように思う。
そして、今や近代も終わり、この方向づけがある種の実体として出現し始めている。それがコンピュータとヌーソロジーなのだろうと考えている。
脱中心化の位置として、太陽が中心化されるのはいい。しかし、問題はそれが物質的太陽か、霊的太陽かということだ。両者はまったく正反対の方向を持っている。この鏡映感覚を注意深く育てていくこと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, シュタイナー, シュタイナー思想とヌーソロジー, メイヤスー