8月 3 2005
無意識のモンチッチ
「カルナ」という雑誌の取材を受けた。NCジェネレーターの話題を聞きつけ、さっそく特集記事の中に組み入れたいという。「カルナ」はもと「気マガジン」という雑誌名で、今年で創刊20周年になる老舗の雑誌である。最近は、気功をベースに、古武道系やアユル・ヴェーダ系の記事を中心に編纂されており、購読者の年齢層もかなり高めを設定しているようだ。古武道や中国気功のファンにどれほどヌースの考え方が伝わるかは蓋を開けてみなければ分からないが、インタビュー記事は6ページほどに渡って掲載される予定だ。インタビュー内容はもっぱら「人工的な機械で気を発生させるとはどういうことなのか」に的が絞られている。わたしは自分のコンセプトをありのままに淡々と答えた。気とは何か。病気とは何か。治癒とは何か——。受け答えの中に、ゲージ対称性や高次元と言った言葉が出てくるので、一般読者には難解、科学通には「トンデモ」と受け取られてしまうかもしれないが、わたしは直球ストレートでしか勝負できないタイプの人間だから、それはそれでいい。
少しうれしかったのは、編集長がNCジェネレーターのビジュアルをいたく気にいってくれ、表紙にも使わせてもらえないかと依頼してきたことだ。ありがたい話である。ジェネレーターの内部を明瞭に出すのははばかられるので、結局、わたしと機械、ご両人仲良く並んで撮ったスナップ写真を提供することになった。
結果、NCジェネレーターを前にほくそえむ半田広宣氏——そういう構図の表紙になってしまった。「New Yorker」や「Forbs」の表紙じゃなかったのは残念だが、日本の一精神世界系の雑誌とは言え、わたしの顔が表紙を飾るのはやはり画期的なことである。決して自慢できるルックスではないが、この手の世界で活動している人たちの中では明朗快活な部類には入るだろう。ただ、一つ不満なことは年相応の威厳がないことだ。昨日、表紙のラフが届いたのだが、予想通り、モンチッチ系の顔に写ってしまっている。カメラがおかしいのか、光が偏向しているのか、わたしはいつもモンチッチ系の顔に写ってしまう。
何かが変だ。いや、変ではない。写真こそが事実。君はモンチッチなのだ。前号は作家の五木寛之氏や佐藤愛子氏が表紙を飾っていたので、まぁ、よしとするか。しかし、この表紙のポートレイト、何かが不自然である。見ようによっては、二昔も三昔前の「明星」や「平凡」を彷彿とさせないこともない。こりゃ、ポーズがまずかったかな。。。わたしのモンチッチ顔に興味がある方は、盆過ぎに大きな書店には並ぶと思うので是非、そちらをご覧になるといい。
写真は無意識を写すと言ったのは確かベンヤミンだったか。わたしがわたしの写真をまじまじと見るということは、他者のわたしの容貌に対する無意識をえぐり出すことになる。——うーむ、老けたものだ。今度は若返りの機械でも研究することにしよう。
5月 30 2006
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズさま
このブログにもよくトラックバックしてくれている不連続的差異論のページにレスを書きました。内容がコンパクトにまとまっているので、とりあえず、プログでも紹介しておきます。
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズさま
>ご執筆でお忙しいとき、TBでお邪魔して、少しは気にしています。
とんでもありません。哲学との関連性に関してたくさんの示唆を与えていただいているのは、わたしの方です。おかけで、ヌース理論の思想的位置が極めて明瞭になってきています。改めて不連続的差異論との邂逅に感謝しています。
>とまれ、「オイディプス化」とは、見事な命名ですね。私は、父権制化ないし近代的自我化と見ています。
ドゥルーズも言ってましたが、無意識の構造は地層を持ち、多層化しているように思います。一神教の発明が「オイディプス化」の意ですが、おそらく近代自我の形成は、このオイディプス化におけるヌーメン(神霊)の力が、さらなる下部に独自の生殖領域を作り出すことによって出現してくる第三の無意識回路の生産物ではないかと考えています。ドゥルーズの言葉で言えば、末端性器、つまり資本主義機械ですね。
今のところ、次のような方向性で考えています。
第一機械/原始土地機械………C^2(前後に虚軸/前後のみ二本。理由はよく分からない)
第二機械/専制君主機械………C^3(左右に虚軸)
第三機械/資本主義機械………C^4(上下に虚軸)
これはゲージ対称性の拡張にともなう次元進展に同じですが、ヌース理論では虚軸が持った直交性とは「観察」と考えます。イデアは複素n次元多様体の中でこうした直交変換を重ねていくことによって、無意識の観察の進展を推し進めているのではないかと思います。ペンローズも指摘していたように、おそらく、無意識構造は極めてアルゴリズム的なのではないでしょうか。骨格は極めてシンプルなものになっていると感じます。
C^3の虚軸(視線)は左右から介入してきますが、C^4の虚軸は上下に貫かれるように降りてくることになります。発生論的に言えば、人間にとっての絶対的上下とは、宇宙空間と地球内部の方向に当たりますから、この無意識の視線によって、初めて大地(地球)が球体として対象化されることになります。この視線が近代パラダイムの骨格である地動説を誘因してきたのかもしれません。フーコーのパノプティコンを例に出すまでもなく、近代コギトの中に潜むこの高見の塔に住まう巨人の目は、常に、この上空からの視線を所持しています。しかし、この「帝国」的視線はC^5の登場によってまもなく勢力を無くしていくことになるのではないかと考えています。C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。ドゥルーズ(アルトー)のいう器官なき身体。ここに始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械への再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。
>左右感覚と奥行き感覚の乖離の事象がとても気になります。C^2=メディア界では、乖離せずに、一種未分化的に合一しているわけですが、この空間は、球面として見ていいのでしょうか。ここは、量子論の《空間》です。私は、まだ、量子論の幾何学が明確に描けずにいますが。
はい、おっしゃる通り球面です。4次元空間上の3次元球面S^3になります。C^2で言えば、SU(2)という群です。まさしく、量子論が展開するスピノールの空間です。
>とまれ、ODA ウォッチャーズ氏の指摘にありましたように、虚軸と実軸の対極性が、C^2=メディア界にあり、それが、オイディプス化=現象化によって、奥行きと左右に乖離するという風に考えていいようにも思えるのですが。
はい、C^2上のSU(2)はメディア界そのもののトポロジーになっていると思います。メビウスの帯のように捩じれを持って内部=外部、外部=内部という交通空間を作っていますね。浅田彰さんが「構造と力」でクラインの瓶の比喩で説明していたトポロジーの本質がこれに当たるのではないかと考えています。
>C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。
対峙し合う自他の関係性が、○(視野空間)と・(他者の目)の双対(○・○・)から、○○(二つの視野空間の同一化)と・・(二組の目の同一化)へと乖離してしまうということだと思います。このへんは初期ラカンが用いたシェーマLの図式と同じです。これら両者の関係は象徴的同一化と想像的同一化の作用と解釈することができると思います。C^2で顕在化していた純粋強度の場としてのメディア界(これが不連続的差異の場だと思っているのですが……)は、これら両者の間に沈み込み、文字通り、メディア界として無意識の欲望回路となるのだと思います。対象aのことだと思います。黄金比的運動が起こっているところ。
>とまれ、おかげで、私なりに、幾何学化のイメージが出てきました。C^2=メディア界(=メディア平面、内在平面?)は、現象界において、潜在化していて、これが、時間軸と関係していると思います。そして、この時間軸とエネルギーが関係しているのでしょう。相対性理論は、C^2=メディア界をオイディプス化=現象界から定式化していて、また、量子論は、なんとか、それを、相補性等で把捉しようとしていますが、まだ、オイディプス化=現象界のへその緒、つまり、唯物論に囚われていると思います。
はい、わたしも全く同じように考えています。現在のわたしたちの意識は、主体が自他ともに鏡像空間で把握されているために、4次元の方向が反転しているのだろうと思います。上に挙げた群SU(2)はパウリ行列で表現することができますが、4次元目の空間を虚時間itと見立て、このitに(-i)を掛けて実時間tに符号を換えると、SU(2)はローレンツ変換群にかわります。この時間t→虚時間itという変換はウィック変換と呼ばれていますが、おもしろいことに、これはあのホーキングが「無境界仮説」の中で、特異点を解消するために使用したトリッキーな数学的技法でもあります。彼は宇宙の始まりの前には虚時間宇宙があったとして、「無」の問題を解消しようとしました。時空的無の背後に何があるのか——これが実は原始土地機械(顕在化するメディア界)ということなんでしょう。物理学がモノ的イメージから脱却することができれば、新世界は一気に訪れてきそうな気配が漂っています。楽しみです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4 • Tags: ゲージ対称性, ドゥルーズ, ニーチェ, フーコー, メビウス, ラカン