1月 28 2011
『ドゥルーズと創造の哲学』
久々に衝撃的な本に出会った。全体で400ページを超える著作なのだが、最初から最後まで、それこそページをめくるごとにヘビー級並みのパンチを喰らい続け、完全に持っていかれてしまった。今でもまだ足下がふらついている。こんな衝撃は『アンチ・オイディプス』以来10年ぶりのことだ。一体何がそんなに衝撃的だったのか――一言でいえば、僕が常日頃感じとっていたヌーソロジーとドゥルーズ哲学に共通して流れる通奏低音をこれでもかというほど綿密かつ精緻に言語化してくれたこと。これに尽きる。
ドゥルーズ哲学はガタリとのコラボによって紡がれた語彙群(器官なき身体、リゾーム、アレンジメント、脱-領土化、内在平面等)が持ったそのPOPな口当たりの良さも手伝って、ボストモダンの思想家たちに様々な文化境界を横断する思考のツールとして使われてきた。ドゥルーズ自身も後期は自らのイマージュ論をもとに絵画や映画などの作品分析をやっているので、文化批評にドゥルーズを参照することはそれなりに有意義な作業であるとは思う。だけど、僕はこういったポストモダンの識者たちのドゥルーズ論に正直あまりピンとこなかった。というのも、この手の議論はドゥルーズ哲学のごく表層的な水準にすぎず、ドゥルーズ哲学がその根底に持った深い射程を何一つ理解していない作業のように思えていたからだ。
ドゥルーズが哲学史家として追い続けたメンツ(ヒューム、ニーチェ、ベルクソン、スピノザ、ライプニッツ等)を見れば分かるように、ドゥルーズはある一定の照準を持って確信犯的に一つの原理的な水準を保ちながら思考しているように僕には思える。その原理的水準はドゥルーズの圧倒的な知識量とその晦渋かつ華麗な言い回しによって見えにくくはなってはいるものの、僕にとっては古代より綿々と受け継がれてきたグノーシス的知以外の何ものでもない。もちろん、多くの研究者たちはそのことを百も承知しているのかもしれない。しかし、ドゥルーズ哲学が今の社会で学問として成立するためにはそこに触れるのはタブーなのだろう。そうしたグノーシス者ドゥルーズの横顔はつねに隠蔽され続け、浅薄な化粧を施されたドゥルーズだけが、単なる知的なファッションとして現実的世界(表象-再現前化)の水準の中で議論され続けてきた。しかし、ホルワードはこの本でドゥルーズ哲学が持ったまさにグノーシス(霊知)としての本性をいとも鮮やかに暴露している。それもその方向性を徹底的に肯定する意味において。何とスキャンダラスな本であることか。この本は、その意味で、まさに従来のドゥルーズ研究者たち、いや既存の哲学の在り方全体への宣戦布告と言ってもいいような内容なのである。幾つか引用してみよう。
「ドゥルーズの作品群において真に問われていることは、ある種の増進された被造物的な可動性や、現働的相互作用のより柔軟で稔りある諸様態を可能にする一連の技法ではない。そうではなく、問題は、あらゆる個別の被造物がみずからの溶解にその方向性を再転換することを、贖いとして履行することである。自然や歴史または世界の哲学者、あらゆる意味での「肉の唯物論者」であるよりはむしろ、ドゥルーズは精神(霊)的な、贖いの、あるいは減算の思想家、脱-身(物)体化と脱-物質化の機構に取り憑かれた思想家として読むことが最もふさわしい。ドゥルーズ哲学を導くのは、この世界の外へと導いていく無数の逃走線である。ただしそれはこの世以外の別の世界へと導いていく線ではなく、脱-世界の線である。」(P.15)
「現働的なものの反転において、またそれを通してこそ、われわれは潜在的なもの、強度化され、変形され、救済または転回された潜在的なもの、その十全に創造的なポテンシャルを復活させた潜在的なものへと回帰する。」(P.148)
これらたった二つの引用からも分かるように、ホルワードは存在そのものの反転を企図したドゥルーズの思考の核心を見事に言い当てている。ヌーソロジーもまた同じ射程を持つ反転の形而上学であり、この「反転」という鍵概念のもとに人間という存在を律動させている宇宙的運動の機構をその根底から引っくり返すことを目標にしている。OCOT情報が伝えてきた人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへという指標はまさにドゥルーズ哲学が訴えてきた一連の哲学的思弁をそのまま知覚-表象可能なものとして再構築していくことを意味しているのだ。ドゥルーズ哲学において知覚不可能なもの、表象化不可能なものとされた理念の構造を新しい知覚形式、思考形式のもとに、超感覚的知覚、超感覚的表象として空間に表現していくこと。これがヌーソロジーにとっての創造行為であり、ここにドゥルーズ哲学と共鳴する通奏低音がけたたましく鳴り響いている。
レクチャーに何度出てもヌーソロジーが一体何をやりたいのか分からないと訝しがる人たちがいる。そういう人は是非、この本を読んで欲しい。哲学的な知識がある程度ないとちょっと読みづらい本であることは確かだが、ヌーソロジーがいわゆるニューエイジ的な自分探しの旅や、さらには政治的、社会的な出来事にほとんどコミットしない理由を少しは理解していただけるかもしれない。あとヘルメス知やカバラ、シュタイナーなど神秘学系の知識に精通している人にもオススメだ。一般に神秘学系の人は哲学を言語に偏りすぎた頭でっかちの学問として毛嫌いする傾向があるが、感覚的なものと思考的なものの一致がない限りヘルマフロディートスの生成は現実のものとはならないとする錬金術の戒めを善しとするならば、超越論的に神秘学的知を再構成していくことは、真のオカルティストとしては必要不可欠な作業ではないかと思う。是非とも、この本をきっかけに思考を最重要視するドゥルーズという哲学者の霊知へのアプローチの仕方を知って欲しい。
ヌーソロジーを長年追いかけている人には、この本に頻繁に登場するドゥルーズ哲学を支える〈現働化-潜在化〉という二つの柱を下に挙げたようなヌース用語の対応で読むといい。おそらくホルワードが解読したドゥルーズ像をヌーソロジーの思考を媒介としてスラスラと理解できるし、また、真のグノーシス者、真のキリスト者としてのドゥルーズに出会えるのではないかと思う。
現動化――反定質(人間の意識の内面——偶数系先手の次元観察子の発展)
潜在化――反性質(人間の意識の外面——奇数系後手の次元観察子の発展)
現動的なものの反転――顕在化、または定質の発振(奇数系先手の次元観察子の発展)
ドゥルーズ哲学の先に見えてくるもの。これを巡ってこれからのヌーソロジーは展開していくことになる。ありがとうホルワードさん(泣)。
9月 17 2013
リール・フィルム・スクリーン・光
奥行きの開示は忘却された絶対的記憶を蘇らせるための序曲だ。それは自己が他者の元へと渡る回廊の入口であり、双方を隔てていた永遠の距離を埋めるための最初の一歩でもある。その奥裡には無窮の二重のスパイラル運動が展開しており、その軸心にはアイオーンと呼ばれる宇宙の自己運動が展開している。
誰もがふと持ったことのある直観——ひょっとして高次の自己とは「あなた」のことではないのか。であるならば「わたし」とは何者なのだろう。「わたし」は世界から減算されるべき存在ではないのか。「わたし」は、あの詩人がいつも言ってたように、むしろ「あなたのあなた」であるべきではないのか。。
世界があなたと「あなたのあなた」の世界になったとき、それは楽園と呼ばれることになるだろう。そのためには「潜在的なもの」を呼び起こさなければならない。そのルートを通じて初めて「わたし」は「あなた」へと交換される。存在はこの「わたし」と「あなた」の交換を潜在的なものの内で行っている。
わたしをわたしにつなぎ止めているのは太陽である。「22」の襞と「13」の音階の中で太陽は常に同じものを反復させている。この同一化の病は「男」と呼ぶにふさわしい。「わたしはわたしである」と誇らしげに叫ぶのはいつも男の方なのだ。
女は「13」を「1」には回収しない。言葉の同一性にも数の同一性にも女は納得しない。「女」は肉体的に欠損している部分を、裏では精神的な余剰へと変換している。この余剰の変換が月の役割である。女はその意味で「14」を持っている。「14」とは「1〜13」の反復を超えたところの外部である。
それは同一性に対して双数性として機能する。つまり女は本来、一人で双子、両性具有者なのだ。地球と太陽が取り結ぶ「12」の関係に対して(13は1に回収されている)、月は14の双子性を表現するために「28」を示す。この「28」がわたしとあなたとを結ぶ二重のスパイラルの土台となっている。
生命が女によって連続化しているということ。これは女こそが潜在化した連続的な多様体の象徴であるからにほかならない。わたしたちは太陽のもとに長い間、眠らされていた女=月を目覚めさせるときに来ているのだ。おそらく男にはこの話は分からないだろう。
フィルムのリールがカラカラと回り、シーンの連続性が運動を作り出す。横に流れて行くフィルム、それを運動として露にするための光。そして、映される場としてのスクリーン。時間と現在と持続の関係を、このフィルムとスクリーンと光の関係としてイメージしてみよう(下図参照)。
重要なことは光は時間に直交して初めて持続の力を持つということ。光が時間と同じ方向に向いてしまえば、光は死ぬ。死んだ光はスピンゼロ。奥行きに時間を見ているわたしたちは死せる光、要は闇を彷徨う光と言える。
秒速30万Kmという光は時間に沿った光。時間の中から光を救出すること。それがグノーシス者の仕事である。そこに現れてくるのは双子の光。スピン±1としての光。幼き神の双生児。向かい合う「あなた」と「あなたのあなた」。
そこにはもはやかつての「わたし」は存在しない。「わたし」とは時間の中に眠っていた光のことをいうのだから。これによって世界から「わたし」を差し引く減算が可能になる。女の世界が目を覚まし、太陽の背後にある隠れた太陽としてのシリウスが世界を照らし始めるだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アイオーン, グノーシス