12月 19 2018
世界を永遠化するにあたって
生物学的には人間はサルから進化したものと考えられているが、ヌーソロジーでは人間の誕生は時間・空間の発生と同じものとして考える。物理学的に言うなら、ビッグバンが人間の意識の発生そのものを反映していることになるわけだ。
科学的思考では、ありえへんトンデモだ(笑)。しかし、こと意識という観点で考えた場合、時間と空間というものは、カントが言ったように人間の意識が成り立つための絶対条件(感性の直観形式)であり、意識と時間・空間は切り離すことができない。
いつも言ってるように、人間は時間と空間の中で生きているのではなく、時間と空間として生きているということだ。物質で思考するから、あたかも何もかもが時間と空間の中で進行しているかのように見えるが、時間と空間、意識と物質を切り離して考えてはいけない。ほんとうは、すべてが連続して繋がっている。
では、ビッグバン以前の世界に何があったか―その世界こそが人間の起源というものになるのだが、その世界について考えるための一つの仮説として、あのホーキングなんかが提唱した虚時間宇宙論というのがある。
虚時間宇宙とは時間tが虚数化して「it(アイ・ティー)」になった世界のことだ(「i t」はドイツ語では「es」。これが無意識を意味するエスとなるのが面白い)。
これは4次元の対称性が復活した世界と考えるといい。そこでは、時間と空間の区別はない。つまり、シュタイナーがいう時間の空間化が起こるわけだ。
最近は11次元とか、10次元などが流行りだが、この虚時間宇宙を「たかだか4次元」と言って舐めちゃいけない。数学的には4次元空間というのは無限の微分構造を持っているとされている。そういう次元は4次元だけだ。ハイデガー風にいうなら、この世界は「無底」だということ。おそらく、この無底性の中に存在そのものの本性が隠されている。ヌーソロジーではこの無底の空間のことを「元止揚空間」と呼んでいる。
自然界の万物は、この無底世界におけるヌースの流動が、時間と空間の発生とともに射影されたものではないかと思われる。そこにおいては、時間と空間の発生も結果でしかない。いや、もっと言うなら、一つのプロセスにすぎない。
この無底の世界に人間の思考が侵入を開始する時期が来ているように思える。そして、この転回もまた存在における一つのプロセスだと言えよう。その意味で言うなら、ヌーソロジーがいう調整期と覚醒期という概念は、この無底なる存在における呼気と吸気のようなものなのだ。
この地平で思考することが、世界の永遠化の条件と言える。この反復が考慮されなければ、自然の何たるかは決して理解することはできない。似た立ち位置で自然を思考している哲学はハイデガーとドゥルーズぐらい。特にハイデガーは『寄与論考』の238~242でこうした存在のビジョンを端的にまとめている。
1月 22 2019
【シュタイナー思想とヌーソロジー】ピックアップ解説 6
シュタイナー思想とヌーソロジー本の解説6回目(最終回)。
・人間の脱中心化における二つの方向について
【シュタイナー思想とヌーソロジー】(半田パート)
科学的な認識の最大の誤謬は、自然界の中に見られる多様な現象があたかも被造物の歴史の中で作り出されたかのように錯覚していることです。p.306
シュタイナー本には書かなかったけれど、この問題を改めて思想のテーブルにあげたのがメイヤスーの「祖先以前性」に関する議論だね。人間が登場する以前の世界について人間はどう考えればよいのかという問題。科学は物的証拠からその世界について、あたかもそこに居合わせたかのように語るわけだけど。
果たしてそれは本当なのか。ここには物質が先か、精神が先かという伝統的な哲学的難問が顔を出してくる。哲学者は科学的な言明はあくまでも間主観的な判断と見なして、相関主義的立ち位置を崩さない。その曖昧さにツッコミを入れたのがメイヤスー。「46億年前に地球が形成された。」のは本当か嘘か?
ヌーソロジーから言わせてもらうなら、この選択は哲学者にとっての踏み絵と言っていいものじゃないかね。そんな言明は「嘘っぱちだ!」と言わないとダメだよ。言えなければ哲学者じゃないし、哲学の存在意義もなくなっちゃう。
メイヤスーは、哲学は相関主義(現象と人間の思考は表裏一体でくっついてるとする考え方)から脱してコぺルニクス的な脱中心化に対して忠実であるべきだ(「本質を外に見ろ」ということ)とハッパをかけてくるんだけど、この脱中心化の方向に物質と精神の二つの方向があることに気づいていない。それこそ、これはシュタイナーが言ったことでもあるんだけどね。
「ある現象領域の本質とそもそもかかわりのない思考パターンにとらわれていたなら、あらゆる知識を総動員したとしてもうまくいくはずがない。たとえばそのようなことは、太陽に生起している事象の中へ地球空間の理念をそのまま持ち込もうとするようなときに起こる。」―『シュタイナー思想とヌーソロジー』p.484
地球が中心ではなく太陽が中心になったこと、それはそれでいい。しかし、メイヤスーのいうコペルニクス的転回(科学的思弁への移行)のイメージは、単に地球空間の理念をそのまま太陽空間の理念に引き写しただけで、太陽さえも物質的な世界として映し見ている。
カントのコペルニクス的転回(主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従うとする、従来の考え方に対する反転した考え方)をプトレマイオス的反転と揶揄するメイヤスーは、カントが産み出した超越論的哲学が精神の方向への脱中心化の萌芽であることを見抜けていない。シュタイナーの表現で言うなら、カントの「超越論的」という概念は「太陽空間の理念」を発現させるための礎石となるものだ。
その意味で言うなら、近代に起きたコペルニクス転回は人間の意識の位置を、物質と精神という、それぞれの方向へと方向づけるための出来事だったのだと言っていいように思う。
そして、今や近代も終わり、この方向づけがある種の実体として出現し始めている。それがコンピュータとヌーソロジーなのだろうと考えている。
脱中心化の位置として、太陽が中心化されるのはいい。しかし、問題はそれが物質的太陽か、霊的太陽かということだ。両者はまったく正反対の方向を持っている。この鏡映感覚を注意深く育てていくこと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, シュタイナー, シュタイナー思想とヌーソロジー, メイヤスー