3月 24 2013
半田広宣 講演会 in 京都——その4
~社会的個と精神的個~
さて、2011年3月11日と言えば、未曾有の被害をもたらし、想定外の事故を引き起こしたと言われる東日本大震災でした。特に、福島第一原子力発電所の事故は、1945年8月6日の広島への原爆投下、1945年8月9日の長崎への原爆投下、1954年3月1日の第五福竜丸事件(水爆実験による被ばく)に続く4度目の被ばくと言われるほどの凄惨な事故でした。ヒロシマ、ナガサキとカタカナ表記されるのと同じように「フクシマ」と書かれるのも、この意味においてです。
この事故を知ったとき、kohsenさんは、ある意味、ついに来たと思ったそうです。ユダヤ的精神は原子力を推進して、平和利用と言いながら、原子力発電所まで生み出しました。その原発がトンデモない事故を起こしたわけです。はじめ、世の中の人は、チェルノイブイリの再来か、とも思いました。kohsenさんが思ったのは、オコツトが言っていた「最終構成の最終構成」というものの到来でした。いよいよ人間の意識がダイナミックに変わる日が来ると思われたのかもしれません。「最終構成の最終構成」とは、無意識構造の意識化であり、魂の知覚とも言えるものだそうです。
しかし、結局、フクシマの最も肝心な真実は闇に隠され、その危険の程度はどこまでなのか、はっきりしたことはいまだにあまり報道されません。震災自体による被害の復旧状況を見てもそうですが、人間の意識が以前にもまして大きく変わったとは思えません。当事者の日本人の意識すらたいして変わっていないように見受けられます。
先ほど述べた人間が持つ「同一性」の構造はまだまだ強いようです。ヌーソロジーで採り上げられる、同一性と差異は、哲学者ドゥルーズの同一性と差異に由来しますが、それは個のレベルにおいて述べるとすれば、「社会的個」と「精神的個」ということになるかと思います。
これは、ヌーソロジーで言う人間の外面と内面に対応します。「社会的個」が人間の内面であり、「精神的個」が人間の外面です。簡単に言えば、社会は言語で作られており、その中で人間は時間に縛られて生きています。これが「社会的個」です。一方、国も名前も性別さえも関係のない、絶対に取り換えの効かないわたしとしての個があります。これが「精神的個」であり、「永遠の個」とも呼ばれます。
よく私たちは多くの個人が集まって国家が出来ているなんて思いますが、これは誤りです。決して、個が集まって国家が作られているのではなく、子を育て巣立っていくために国家があるのだと言います。
社会が個を従属させるための一番のやり方は、個を一つだと思わせるやり方です。「私は一つ」だというわけです。この考え方は、私という存在を一つの中に縛ります。他者は複数なのに、なぜ私は一人なのでしょうか。もし、他者との関係の数だけ、私が存在するとしたら、なぜ私が一人である必要があるのでしょうか。
kohsenさんは、今回の講演の中で、自分は何とか精神的個を開花させる方法を考えていると言いました。つまり、それこそがヌーソロジーだと。kohsenさんは、「社会的個」に対してはあまりにも圧倒的に不利にしか見えないような「精神的個」を、永遠なる個として目覚めさせられることを確信していると言います。そのための方法論の一つが「反転」という概念だそうです。
~反転~
さて、どうやって「反転」という新しい感覚を獲得していくかということですが、それは差異に気づくところから始まります。
まず、私たちの世界は、ヌーソロジーで言うオリオンとプレアデスの結合によってできた同一性の世界であり、それが「時空」です。一方、シリウスとは、差異が同一性を抑え込む世界です。
その時空から差異として出ているのがハイデガーの言う「現存在」です。したがって、自らが現存在として立ち、そこを創造の現場へと変えて行くことこそ、私たちが歩むべき道だというわけです。実際、時空から半分はみ出している方向がシリウスだそうです。
果たして私たちが「生きて経験している」ことを一体何が見ているというのでしょうか。それこそが「死」なのだと言います。つまり、言い換えれば、「死」がわれわれの「生」を経験しているというわけです。それは、霊が経験していると言ってもいいでしょう。
では、反転意識は何を出現させるのか、ということです。
ヌーソロジーによれば、私たちの精神が作る幾何学というのは、複素空間として表現できると言います。それは象徴的な記号としては、マルジュウで表現できるそうです。実軸を横軸とし、虚軸を縦軸と見立てた複素数平面からなる空間です。私たちは、他者の視線を借りて、世界を幅として見ており、本当の奥行きは見ていないとのことです。この本当の奥行きこそ、自己の視線が作り上げている空間であり、虚軸に対応するようです。つまり、私たちが「見ている」と思っている空間は、実は他者によって「見られている」ことによって作られた空間であり、自己が「見ている」空間ではないということです。
このことに気付くことから、世界の反転が始まります。私たちは時空と呼ばれるモノの内部に閉じ込められており、そのことに気付いたとき、「見られている」空間から、「見ている」空間への移行が始まります。他者の視線によって作られた「幅」の空間から、自己の視線によって作られていく「奥行き」の空間へ。そのとき、物質は「マリア・マテリア」となるというわけです。それがシリウスの世界風景だそうです。
「奥行きには持続がある。過去があるから、現在があるという感覚がある。」
今回のkohsenさんの講演会では、どちらかと言えば、ヌースの構造論ではなく、むしろ、ヌースの理念や精神といったものに注目したお話でした。特に「悟りをした者に名はない」と言われたkohsenさんの言葉が印象的でした。
とりあえず、初日3月16日の半田広宣2013講演会in京都の内容は、以上のようなお話でした。
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Φさん、どうもありがとうございました。
10月 18 2013
シュタイナー霊学とヌーソロジーの幾つかの齟齬
OCOT情報は人間のことを完全性質ともいう。完全性質とは「力が全く確実でない状態」とも言われる。ここでいう力とは精神に対する即時的認識力のようなものと考えるといい。こうした認識の欠如は精神に対して精神を融解させる働きを持つ。この融解において生じているものが「熱」だという。
その意味では、自然界を宇宙精神の投影だと考えた場合、完全性質としての人間はこの自然界においては「熱」として反映されていることになる。そして、もちろんこの熱は即時的認識を持った存在から見れば「人間の状態」を指すことになる。
この熱的状態から人間の精神は進化によって「カタチ」の生成へと向かうとOCOT情報は言う。ここでいう「カタチ」とはシュタイナー的に言えば魂的諸状態の形象のことである。この形象を生み出してく力のことをOCOT情報は「定質」と呼ぶ。定質とは性質とは正反対の意味を持つ言葉だ。性質の状態をstabe=安定化させていく力といったような意味に解釈できる。
この定質の発振が実際に何に当たるかというと、それがヌーソロジーがいつも言っている「顕在化」、つまり素粒子構造の知覚化にあたる。これは物質の即時的認識の第一段階と考えていい。
実はシュタイナーも同じようなことを言っていて、土星期(熱的状態にある)から太陽期になると、アルヒャイ(土星期の人間段階にいるもの)が周囲の存在の内的、魂的諸状態を形象として観察できるようになると書いている。おそらく、この観察を試みているのがヌーソロジーの現在の作業ではないかと考えている。つまりは、人間の物質体・エーテル体・アストラル体・自我という人間の魂的諸状態が素粒子構造によって規定されていると考えるわけだ。こうしたアプローチを採ることによって、シュタイナーが霊視したつかみ所のない宇宙史を文字通り精神科学としてポストモダン的に再生させるためのヒントが見えてくる。
ただし、シュタイナーに拠れば現在の人間は地球期にいる。より詳しく言えば、7段階の遊星期における第4番目の地球期の、7小循環における後アトランティス時代の、7 区分における第五文化期だ。シュタイナーは魂的諸状態を形象として観察するこうした能力を現在の地球期の人間が持つことはできないとし、この能力が生まれてくるのは次の第五の惑星進化期である太陽期だとしている。
シュタイナーのシナリオから言えば、ヌーソロジーは明らかに宇宙のルール違反者、早すぎた受胎とも言えるのだが。。ボクは負けないぞp(^ ^)q
さて、OCOT情報との比較だが、とりあえず、シュタイナーのいう7段階の遊星期=脈性観察子、7小循環=大系観察子、7つの文化期=次元観察子という対応がそれなりに成り立つように感じている。ただ、現在が脈性観察子Φ11〜12(脈性としての第四世代に当たる)に含まれているかどうかは怪しい。それが全体の論理立てとして美しいことはよく分かるが、OCOT情報に拠れば、今回の交替化が「オリオンと太陽系精神の交差」おける最後の交替化だと言って来ているからだ。つまり、何かフィナーレ臭いのである。僕が「未だ人間は土星期にいるのではないか」と考えているのも、このフィナーレが始まりの土星期に繋がっている感覚がしてならないからだ。それにヌーソロジーの発祥が土星の衛星の「タイタン」だったこともある(このへんは感覚なので適当に読んで下さい)。
さて、シュタイナーとの最も大きな齟齬は時間の尺度。OCOT情報では前に示した脈性観察子の諸段階は、調整期(現在)の人間の時間概念に翻訳するならば、わずか約416.000年ですべて終了するとしている。これはマヤのフナブク・インターバルの4周期分である(フナブクが大系観察子の世界に相当します)。
地質学的年代の常識からすれば、これはヘソが茶を湧かす主張。しかし、地質学が放射性崩壊の半減期に絶対的な信頼を置いて年代測定を行っていることの本質的な意味を考えると、OCOT情報を一蹴するわけにもいかないんだな、これが。科学が年代測定に用いる放射性同位体とは一体何か考えないといけない。
OCOT情報では放射性同位体とは「原子に反映された人間」を意味する。放射性同位体は不安定なので、つまり、存在に不安定さをもたらす要因がどうも人間だということだ(笑)。存在自体はこの不安定要因を消そうと放射性同位体を安定同位体に向かわせようとしているだけ。ここでは人間自身が安定の方向に向かえば、放射性同位体は一気に姿を消すというストーリーになっている。
もしほんとうにそのような仕組みで原子の世界が営まれているのであれば、科学が行っている年代測定などは全くの架空のフィクションにすぎなくなる。
放射性崩壊の中でも核分裂なんかはほんと「原子に反映された人間精神の最下層」と言っていいように感じる。ウラン以上の核種は実は原子(宇宙精神の投影という意味では)ではない。それは精神進化が裏返っている部分がくっついて出て来ているのだ。つまり比喩でも何でもなく、ほんとうに悪魔的なものだということだね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 0 • Tags: OCOT情報, アストラル, アトランティス, エーテル, オリオン, シュタイナー, 大系観察子, 次元観察子, 素粒子