9月 15 2017
木の実と食べる鳥と見つめる鳥のお話再び
目の前の空間には二種類の空間が重なり合っている。この二重の空間知覚のことをヌーソロジーではバイスペイシャル(bi-spacial)感覚と名付けることにした。一つは時空、もう一つは素粒子の空間だ。
時空は経験的自我の活動母胎となり、素粒子の空間の方は超越論的自我の活動母胎となっている。ヌース的には中和側と等化側と言っていいように思う。人間は中和先行型の意識を持つために、この超越論的自我が活動している空間の方は無意識の中に眠っている。
この、超越論的自我が活動している場所が持続空間だ。
ヌーソロジーが目指しているのは、この経験的な自我と超越論的な自我の主従関係を逆転させた空間認識を作り上げること、ということにでもなろうか。自分というものを作り出しているもの側の空間的な組織を認識に露わにするということだ。
シュタイナーとのコラボ本の作業をやってハッキリと分かったが、この超越論的な自我が働いている世界がエーテル界ということになる。物質界の意識から、エーテル界の意識へと意識の在り方を変える、ということ。いや、より正確に言うなら、これら双方の意識の両刀使いとなること。それがトランスフォーマー(変換人/人間を変形していく者)のイメージでもある。
経験的自我は言語と概念に傾いている。その傾きを超越論的自我の方へと是正している働きがある。それが、僕たちが知覚や感覚と呼んでいるものの世界だ。その意味で、知覚や感覚は超越論的なものの世界を探る手掛かりにはなるが、それだけに頼っても、結局のところ、傾きの是正以上の域に出ることはできない。回り回って、また経験的なものを反復するだけに終わってしまう。
ヌーソロジーには身体性(人間の生身の経験性)が欠如している、といった批判をよく受けるのだけど、感じることを蔑ろにしているわけじゃ決してない。感性的なものにいくら意識的になっても、ここで言ってる「超越論的なもの」を露わにすることはできないと考えているからだ。顕在化はヌース(能動思考)が先手でないと起こりえない。これは感覚を先手に持つということとは違う。そう独断して、まずは、持続における場所性を作ることが最重要だと、決め打ちしている。
つまり、超越論的なものは感じるものではないということ。それは、ドゥルーズやOCOTの言い分を参考にする限り(笑)、「感じさせているもの」なのだ。それは感性のような受動的な働きではなく、敢えて言うなら、能動的な感性の働きなのだ。
たとえば、誰もが目の前に点をイメージすることができる。しかし、その能力がどこからやってきているのかは誰も知らない。それをやらせているものがいるから、僕たちはそれができる。この「やらせているもの」側の正体を露わにしていくのが、ヌースの思考だと考えるといい。
つまり、世界には、「感覚されるもの」と、「感覚するもの」と、「感覚させるもの」とが存在している、ということ。僕らは、もちろん「感覚されるもの」と「感覚するもの」の中で生きている。だけど、肝心の「感覚させるもの」の世界がどこにあるのかが分からなくなっている。
これら三者の関係性は『シリウス革命』で紹介した、例のウパニシャッドの逸話と同じ関係を語っている。すなわち、木の実、食べる鳥、見つめる鳥の三者の関係だ。
食べる鳥(感覚化するもの)は、一生懸命、木の実(感覚されるもの)を食べているわけだが、食べる鳥を、その背後で一生懸命見つめている鳥がいる。それが、さっき言った超越論的な自我に当たるのだと考えるといい。そして、感覚するものが感覚しているものとは、実は、この見つめる鳥の影でもあるということなのだ。
物質と精神はそのようにして、三位一体のトリアーデのもとに一つの円環を描いている。この円環を再生することが、万物復興の意であり、宇宙を正しく見る視座であると言える。
エーテル界が見えてくれば、この詩的な寓話的ビジョンは、実在的な確信に変わってくるはずだ。
9月 27 2017
SU(2)は愛の種子のようなもの——世界の底辺で愛を叫ぶ
10年以上にわたって考え続けているSU(2)の描像。時間と空間を生み出してくる持続空間の構造と考えられるが、一点だけ不明瞭な点がある。それは、この空間が720度回転して元の位置に戻るというところ。内部と外部を等化する回転だというのは予想がつくが、ドンピシャの描像がまだ出ない。
シュタイナーがいう物質体・エーテル体・アストラル体・自我という一種の次元階層。この大元の空間的骨格もこのSU(2)を起源に持っていると考えられる。空間は四つの次元階層を持ち、四階層目は第一の階層に上位から重なる。つまり、自我は物質体に重なってある。
ヌーソロジーではこの重なりのことを「凝縮化」と呼ぶのだが、これは精神階層が物質化していくときの基本秩序のようなものになっている。
量子力学では、この階層性は時空→波動関数→ヒルベルト空間→アイソスピン空間という構成として表現されていると考えられる。このアイソスピン空間から再び時間と空間が生産される。
精神はこの方向への回転を無限に折り重ねている。ドゥルーズのいう襞化のシステムだ。
なぜSU(2)の描像が重要になるかと言うと、これが見えないと、認識は常に時間と空間の中に閉ざされ、そこに出現してくる物質の多様性をただ、時間と空間の中でしか思考できないからだ。今の科学的理性の思考が持った要素還元主義や機械論的なものの見方がこれに当たる。
垂直方向への次元が見えず、すべてを水平的で一様な延長世界の中で見てしまうということだ。
SU(2)が見えれば、この垂直性の在り方の基礎が高次の知覚として明確化されることになる。たとえば、目の前に、水晶玉と鉄球があったとするなら、この高次知覚はそれらを単なる物質としてではなく、垂直的方向にある持続空間の重なりの違いとして意識化することができてくるということだ。
持続空間の次元はタテに積み重ねられている。そして、その様々な階層が互いに交通空間を作り出し、多様な組織化を行っている。科学はそれを外部から見て、分析を行っているだけだ。
この外からの分析が、物質の操作性や改変性に結びついている。この改変は、生成とは全く別の領域で為されているものだ。人間が人工的に作り出すケミカルが自然物と水と油のような関係になって溶け込めないのも、この認識のズレが原因になっている。人間の認識は世界にとっては異物なのだ。
この異物化の原因はハッキリしている。つまり、人間の世界認識には「愛」がないということ。SU(2)に始まる内部空間からの持続の組織化は常に双対関係で世界を構築していく。生成は倫理的なものなのだ。しかし、人間の世界認識は常に自我の一人称の中で閉じている。その平坦さが異物なのだ。
世界の底辺で愛を叫ぶ………ってか(笑)。
垂直性の次元が見えない限り、それはずっと続く。今までも、今も、これからも。
この愛欠病から早く解放されたいものだ。
そのためにも、SU(2)を思考せよ。
※下図 : SU(2)の数学的構成
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), アストラル, エーテル, シュタイナー, ドゥルーズ