7月 3 2009
空間を哲学する——対話編その3
●記憶が存在する場所
半田 視覚的にはモノの存在は常に前において確認されているのだけれど、問題はモノが目の前に見える、モノが目の前にある、というのはどういうことかを考えなくちゃならない。
藤本 はっ?一体何を言ってるんですか?
半田 モノがあるという認識がどうして意識に可能になっているのかってことだよ。
藤本 それはさっき言われましたよね。言葉じゃないんですか。モノが名を持つことによって認識されているということじゃないんですか?
半田 悟性的にはそうだね。でも、感性的には違う。言葉を知らない赤ん坊でもおそらくモノの存在を直観しているはずだ。その証拠に、母親が笑顔を作ると赤ん坊も笑顔で応えるだろ。そこに何かが存在しているという認識の前提に直観があり、直観が意識に成り立つための最も重要な要素は記憶じゃないかと思うんだ。
藤本 「ある」という認識は記憶がもとになっているということですか………。
半田 うん。知覚自体は言ってみれば現在の切り取りでしかないよね。今、この灰皿を見たとしても1秒前の灰皿はもうそこには存在していない。1分前の灰皿や1時間前の灰皿について言えば尚更だ。それらはいわゆる過去に飛び去ってしまっていて、今、現在、この瞬間にはもうそこにはなくなってしまっている。だから知覚だけでは灰皿が「ある」という持続状態を意識することはできない。つまり、灰皿はあり続けているからあるのであって、この「あり続けている」という認識には当然のことながら知覚されたものが記憶として継続してなくちゃならない。
藤本 なるほど、面白いですね。普通、僕らはモノは自分の意識とは無関係に外の世界にあるものだと思っている。人間がいなくたって外の世界は太古から存在していたに違いないと考えていますよね。このような捉え方だと記憶はモノがあるということに対して従属的な関係を結んでいることになります。とにかく外の世界は人間の意識とは無関係にあり続けていて、そのあり続けている世界を意識で想起したときの知覚が「記憶」と呼ばれている。こういう考え方では、世界があり続けていることと記憶は全く別物になってしまう。でも、ヌーソロジーでは人間が持った記憶自体が「ある」ということを支えている力だと言ってるわけですね。
半田 うん、全くその通りだね。もっともこれはヌーソロジーというよりもベルクソンという哲学者が言っていることなんだけどね。つまり、何が言いたいのかというと、物質が存在しているという認識自体が実は記憶だということなんだ。物質が無条件に外在世界にあって、それを人間が知覚してその記憶を所持しているのではなくて、物質があるという認識が意識に起きていること自体が実は記憶だということなんだよ。いやもっといっちゃうと物質自体が記憶と言ってもいいね。記憶というのは僕らの一般の感覚では内在の働きだよね。だからベルクソンはこうした内在の息がかった物質のことを外にあるとされる従来の物質概念とは区別してイマージュと呼んでいるんだ。だから、ベルクソンにとってみれば宇宙が存在するといったとき、それはイマージュの総体を意味している。
藤本 わぁ、なんかそう聞いただけで、宇宙自体が自分自身みたいな気がしてきますね。世界があるということ自体が一気に自分の内なる広がりのような気分になってきます(笑)。
半田 だね(笑)。ベルクソンのねらいもそこにあったと思うよ。このイマージュという概念は19世紀までの哲学が引きずっていた旧態依然とした主体と客体の二項対立を解消するためのベルクソンなりのキーコンセプトなんだ。
藤本 ん~、確かにそう考えると主体と客体を分離して考えることなんてできなくなりますね。概念にパワーがあるなあ。天才的閃きですね。
半田 うん。すごいよね。
藤本 で、そのベルクソンのいうイマージュというものがヌーソロジーとどう関係してくるのでしょう?
半田 イマージュという概念はそれまで主体サイドの働きと考えられていた記憶という作用を客体サイドの物質に重ね合わせることによって、主体の居所を対象側に移設しようとする試みだと言えるんだけど、ヌーソロジーは単に対象だけではなく対象の背景空間についても考えないと、このベルクソンのいうイマージュという概念に論理的な整合性を持たせることは難しいのではないかと考えてるんだ。実際、ベルクソン哲学のことを神秘主義的だと言って批判する人たちも多くいるしね。
藤本 対象の背景空間についても考える?
半田 そう。つまり、僕がさっきから「前」と呼んでいるやつだね。対象の存在は確かに「前」で確認されている。でも、その「前」は対象だけじゃなく対象の背景空間も含んで初めて「前」と呼べるってことさ。
藤本 半田さんがいつも言ってるモノは図と地の関係によってしか認識できないというゲシュタルト心理学の内容のことですか?
半田 もちろんその意味もあるけど、ここでいうモノの背景空間というのは「前」という方向が持った空間の奥行きについて言ってると思ってほしいんだ。
藤本 奥行き………。
半田 一言で言えば、「奥行きこそがイマージュの源泉である」ってことかな。
藤本 奥行き………がイマージュの源泉?
半田 うん。さっきも言ったように目の前にモノがあるという認識はベルクソンの言い方を借りれば必ず幾ばくかの時間の経過を含んでいるということになるんだけど、この時間の経過を漠然と記憶や持続という言葉で観念的に説明するのではなく、その時間の経過がどこにあるのかを知覚を通して論理的に探索してみると、どうしてもモノの背後にある奥行きの中にあるんじゃないかって思えてしまうんだよね。
藤本 時間の経過がモノの背後としての奥行きにあるってどういうことですか?
半田 藤本さんはアインシュタインの相対性理論に出てくる時空という概念は知っているよね。
藤本 ええ、多少は。時間と空間は別物ではなく4次元の連続体として一体になっているってやつでしょ。
半田 ご名答。僕らはアインシュタインが現れてもう百年以上も経つというのに、空間や時間に対する見方は実際のところ相変わらずニュートン的で、空間は3次元で、それとは別に時間が刻一刻と流れていると考えている。つまり、時空一体として空間や時間を見ることにまだ不慣れなんだよね。しかし、時空としてこの空間の広がりを見れば、それは遠くに行けば行くほど過去になっているということになる。
藤本 ええ、半田さんも『人類が神を見る日』で書かれていましたよね。視覚的な情報は光で運ばれてくるわけですから、遠方から情報が届くまでに時間を要するということですよね。たがら、100万光年彼方に見えるアンドロメダ星雲は今現在のアンドロメダ星雲ではなく100万年前の姿になっている。
半田 そうだね。科学者たちがブルーバックスなんかで一般人向けによくやる説明だよね。しかし、これは極めて重大な内容だと感じないかい。奥行きはそれが深まれば深まるほど過去となっているということ――つまり、このことは人間が前に見ている空間の中には過去から現在に至るまでの一切の時間の流れがぎつしり詰まっているということを言ってるのと同じだよね。
藤本 なるほど。科学者たちの言ってることを真に受ければ確かにそういうことになりますね。
半田 つまり、時空という概念を通して「前」を見た場合、奥行きは単なる空間としての3次元の一部ではなくて4次元になっているということなんだよね。
藤本 時間は4次元ですもんね。
半田 うん。このことは裏を返せば過去は空間的にはどんどん遠ざかっていっているものとして翻訳が可能だということなんだ。僕らの知覚との関係でいえば、たとえば今、目の前に灰皿があるとして、一秒前の灰皿という存在は現在の時点では30万km彼方の奥行きの中に遠ざかっているということになる。昨日の灰皿は同じく一光日(光が1日かかって進む距離)彼方の奥行きの中だ。
藤本 ………つまり、それが記憶だということですね。記憶は奥行きの中に畳み込まれていると。。
半田 そうだね。ベルクソンの考え方とアインシュタインの考え方を繋ぎ合わせるとどうしてもそういう推論が出てきてしまう。モノというのは記憶をも含んでモノとして存在していて、ベルクソンに言わせればその記憶というのは一般にいうような断片的な記憶のことではなく、常に在り続けているという持続感覚のことなんだ。その持続感覚は言い換えれば僕らが感じている時間の流れそのもののことだから、それは前の中に、つまり、奥行きの中にあると考えても論理的には矛盾はないよね。
藤本 なるほど。。だから、前が主体だというわけだ。。
半田 うん。まだまだ不明瞭なところはあるけれど、ヌーソロジーはそういう考え方をしていると思ってくれればいいよ。
藤本 ん〜、前が主体で、後が客体かあ。。ぐるっと体を回したときに、前だけで作られている球空間と後だけで作られている球空間の二つがあるってことなんですね。そして、僕らが普通、外の世界と呼んでいるのが後が集まってできている球空間で、こころの世界と呼んでいるのが前でできている球空間になっていると。。
半田 ああ、大まかにいいうとそれらが順に次元観察子のψ6とψ5と呼んでいるものになるね。
藤本 でも、なぜなんでしょ。そういう仕組みがこの空間にセットされているとしても、なぜ僕らは前を客体世界と感じ、むしろ後側を主体世界と感じているんでしょうかね。それってやっぱりさっき言われた言葉の力のせいでしょうか。言葉が後の空間にバラまかれることによって、その言葉の集まり自体を主体と感じているからなんでしょうか?
半田 そうだね。前が後側に鏡像を作っているんだよ。その意味で言えば、僕らが普段、外の世界と呼んでいるものは鏡の中の世界なのさ。さっきも言ったように想像的なものだよ。
藤本 それも『トランスフォーマー型ゲシュタルトプログラム』に書いてありましたよね。
半田 うん。この際だからしつこく説明しとくね。「わたし」にとっての後の世界というのはさっきも言ったように他者の前に当たる世界だよね。こうして僕と藤本さんが向かい合っているとして、藤本さんには僕の後の世界が見えているはずだ。いや、それだけじゃく、僕の前に見えている様々なモノの背後もおそらく見えているよね。それが僕にとっての「人間の内面」ということになるのだけど、それは何度も言うように僕には実際には見えていないわけだから、藤本さんが前に知覚しているものを僕が認識するためには僕は藤本さんが発する言葉でしか構成するしか方法がない。そして、そのとき同時に藤本さんが前に見ている世界の映像もイマジネーションによってコピーすることになる。つまり、藤本さんの視野空間に僕を含む僕の背後世界がどのように見えているかってね。これは僕にとっては僕の鏡像に等しい。
藤本 ええ。朝起きたとき洗面所に立って鏡を見ると自分の顔だけではなく背後世界も映し出されている。という話ですよね。それは他者の視野空間に映っている自分の像とほとんど同じものだと。
半田 うん。鏡映反転を起こしているわけだ。だから、言葉を他者から聞き取りながら習得して他者が見ている世界を言葉としてコピーし、そのイメージで世界を構成していくというのは、鏡像空間を作っていくことと同じ意味を持っているということになるんだ。
藤本 つまり、僕らが外在世界と呼んでいるものは言葉によって概念として構造化されていて、かつそれは鏡像空間の中に投げ込まれた鏡像的なイメージの集積にすぎないということですね。
半田 おそらくそうだね。だから、本当の主体である前は反転させられてしまって、その鏡像空間の中で自分の顔を主体として感じてしまうことになる。
藤本 半田さんが仮面(ペルソナ)と呼んでいるものですね。
半田 前の面が後の面に反転させられている。そしてそのときの後の面が集約させられたものが顔としての「面」だと考えるといいよ。
藤本 面白いですね。日本語でも英語でも面=顔、face=faceです。こりゃあ偶然の一致じゃないな。ほんとうの主体である前が後になってひっくり返っちゃうんですね。それと同時に前であったものに後が重なり、ほんとうの前は意識から消え去って、客体と呼ばれる世界になってしまう。。主体と客体の反転だ。
半田 ああ、前が無意識の中に沈んじゃうんだよ。フランスの哲学者や文学者たちは神秘思想の影響もあって人間という存在自体を性的な倒錯者だとよく言うんだけど、このひっくり返りもその倒錯の意味と考えていいかもしれないね。ヌーソロジーが4次元の反転と呼んでいるやつさ。おそらく持続としての時間もそのときに普通の時間に化けている。
藤本 普通の時間に化けているってのは?
半田 ベルクソンの言葉でいう「空間化された時間」というやつだね。イマージュとしてモノの背景空間の中に浸透していたはずの時間が鏡像的にヒックリ返されることによって単なる時計的な時間に置き換わってしまうとでもいうのかな。直線上に目盛りを打ったように解釈されてしまう時間のことだよ。
藤本 ?記憶における時間と通常の時計の時間は違うものだということですか?
半田 うん、全く質が違うものだと思うよ。
藤本 どういうふうに違うんでしょ?
半田 その違いを深く理解するにはベルクソンの本(『意識に直接与えられたものについての試論』や『物質と記憶』)を読んでもらうのが一番いいんだけど、ごくごく簡単に言うと、時計の時間は過去、現在、未来がすべて一様で均質的なものでしかないということなんだ。直線を引いて、中央にゼロ時刻を取り、左側に過去、右側に未来をそれぞれ方向づけ、直線上を現在という点時刻が流れて行くってイメージだよね。
藤本 物理学が使う時間軸みたいな考え方のことですね。
半田 うん。でもこれだと時間は単に空間の位置座標のようなものでしかなくなって、実際に僕らが感じ取っている時間とは程遠いものになってしまう。たとえば、現在というのは今、この瞬間のことを言うわけだけど、僕らの実際の生にとっては現在というのは必ず過去や未来を含んでいるよね。現在は過去の集積によって初めて現在となり得ているのだし、また、未来への希望や不安も抱えて初めて現在足り得ている。現在というのはこのように過去と未来の間に挟まれながら、それらを絶えず含んであるものだ。しかし、直線的な時間においては現在というのは、その直線上の単なる点時刻のことでしかない。点時刻の中には当然、その瞬間、刹那しか存在しておらず、過去や未来と有機的なつながりは何一つ持っていない。つまり、点が集まって線を作るという思考と同じで、瞬間瞬間の集まりのようなものとして時間の流れを想定しているわけだ。
藤本 そうですね。今、今、今という今の連続的な連鎖で時間が成り立っていると確かに思っています。
半田 しかし、そんな瞬間、瞬間なんてものは存在していないと考えた方がいいんじゃないかな。大森荘蔵という哲学者がうまい喩えをしていて僕も思わず笑ったんだけど、ハムの切り口をいくら集めたところでハムにはならないってことだね。それと同じで点時刻をいくら集めたところで時間の流れになることはない。それはせいぜい真の時間である持続に対する一つの参照の仕方にすぎず、単に整然と数字のラベルを貼付けて序列化しているだけってこと。ベルクソンが時計の時間のことを空間化された時間と呼ぶのはだいたいそんな内容かな。
藤本 でも、半田さんはさっき、奥行きの中に時間があると言われましたよね。そのときの時間も奥行きが深まれば深まるほど過去で、浅ければ浅いほど現在に近づくってことにはなりませんかね。なんだか空間化した時間のイメージに近い感じがしますけど。
半田 そうだね。奥行きに距離があるのならそうなるよね。でも奥行きに距離なんてないとしたらどうなる?
藤本 ………? 一応、奥行きというからには長さがあるような気がしますが。
半田 それは奥行きではなくて「幅」だと思うよ。奥行きを真横から見たことを想定して幅としてイメージしてしまっているんじゃないかい。僕が奥行きと言っているのは身体における絶対的前方向のことだよ。自分がそれを真横から見ることができるのであれば奥行きは幅に変換されて長さを持つかもしれないけど、こと身体空間においては奥行きはあくまでも奥行きであってそこには長さは存在していないよね。つまり、実際の知覚では奥行きというものは1点で同一視されて潰されてしまっている。だから、その厚みは無限に小さいものだと言わなくちゃならない。
藤本 観察の位置を横に出しちゃいけないということですね。
半田 うん、現段階ではダメだ。それだと身体空間における左右が介入してきてることになる。
藤本 確かに前だけ見る限りではそこにある奥行きの方向は点に潰されていますね。ということは、記憶はその凝縮化された点の中にグチャグチャになって蓄えられているってことですか?
半田 おそらくね。そういう考え方もできるってことだよ。射影として潰されている奥行きの中に圧力のようなものが加わっているかどうかは分からないけど、とにかく点に潰されてしまっている奥行きの中にある時間は数直線上で示される時間のように整然と秩序立てられて並んではいないと思うな。それこそ実際の記憶そのもののが僕らの意識に示す在り方と同じように、それは重なり合ってランダムに蓄えられている感じがする。過去に遡れば遡るほど記憶が薄まるってこともないし、時計的な時間の順序で記憶が整然と並らんでいるってこともないだろ。
藤本 ええ。半年前と一年前の区別は記憶だけじゃ判別できないですね。カレンダーをあてがわないと。。
半田 うん。つまり、僕らの時間の観念というのは、それこそ外面の時間(記憶)と内面の時間(時計、カレンダーでの時間)という形で混淆的に作り出されているんだよ。その二つがあって初めて時間は意識化されている。だけど、僕らはこれら二つの時間の在り方をうまく分離することができず意識の中でごっちゃになっているんだ。それを明確に区別していくことがヌーソロジーが言っている人間の内面と外面の見極め作業のことだと言い換えてもいいかな。
藤本 男の時間と女の時間ですね。時計の時間が男のリビドーによる時間、記憶の時間が女のリビドーにおける時間。二つが合わさって初めて時間が存在している。。
半田 そういうことだね。時間もまた悟性と感性の共同作業によって生まれているものなんだよね。
——つづく
7月 8 2009
空間を哲学する——対話編その4
●男と男、女と女、そして男と女
藤本 なるほど、つまり感性=前が感じている時間というのは別に過去から現在というようにしっかりと秩序立てられて並んでいるわけじゃなく、今・現在の中にアーティストが作り出すコラージュのように順不同で一緒に重なり合っているようなもので、それを一週間前だとか一年前だとかを目盛りがついた物差しのようなイメージに沿って判断しているのは悟性=後が作り出している時間だということなんですね。
半田 後そのものが悟性というわけじゃないけど、ベルクソンが言うような「空間化した時間の場所」はおそらく後にあると言えるだろうね。その意味で感性の時間における「今」と悟性の時間における「今」というのは全く別な意味を帯びてくるんだよね。つまり、両者には絶対的な差異があるってことなんだけど。感性の時間における「今」というのはすべての過去を含んだ生きる現在そのもののことを言い、それは極端な話、ニューエイジがいう永遠の今と言い換えてもいいような今なんだよね。でも、悟性における「今」というのはそれこそ物理学でいう点時刻のように一瞬に過ぎ去ってしまう「今この瞬間」のことで、それは数量化されている時間の素のようなものでもあるよね。時間はこの二つの「今」があるからこそ時間として成り立っているのであって、物理的な視点だけで時間のことを考えてもほとんど意味をなさないと考えた方がいいんじゃないかな。
藤本 それら二つの時間もまた、身体における「前」と「後」の関係にある考えていいのですか?
半田 うん。ヌーソロジーの観点では互いに反転した4次元の関係にあるものと見なせるからそういうことになるね。「時間と別れるための50の方法」にも書いたように、4次元空間と4次元時空の関係にある。哲学的には持続と延長、内在と外在という言い方ができると思うよ。
藤本 4次元空間が持続で、4次元時空が延長ということですね。
半田 そうだね。ベルクソンと表現は逆になっちゃうけど考え方は同じだ。
藤本 う~ん、なるほど、「前」が4次元空間で僕らが内在と呼んでいるところ、つまり主体の世界。「後」が4次元時空で僕らが外在と呼んでいるところ、つまり客体の世界ということですね。
半田 まとめて言うとそういうことだね。
藤本 ヌーソロジーが身体の前と後をどう見るかということは何となく分かってきたんですが、となると、自己と他者の間ではこれら両者の関係も相互に反転した関係になっているということですか?
半田 そうだね。恐ろしいくらいに見事にひっくり返されていると言えるんじゃなかろうか。
藤本 でも、それだと話が少しおかしくなりはしませんか?
半田 どうして?
藤本 さっきの続きになりますが、たとえばここにある灰皿は、今、半田さんと僕の間で互いに共通して外在世界にある客体と見なされていますよね。
半田 そうだね。僕も藤本さんも外の世界にあるものとして見ているね。
藤本 ということは僕の外在認識が別に半田さんの内在認識にはなっているわけではないですよね。
半田 うん、なっていないね。
藤本 それはなぜなんでしょ?
半田 いいところをついてきたね。これでようやく例のアリストファネスの寓話に隠されている意味についてヌーソロジーの視点から話すことができるかな。。再度、おさらいしておくよ。あの寓話の中では、人間は太古の昔、背中同士がくっつき合った生き物だったとあったよね。これはあくまでもヌーソロジーからの解釈になるけど、この話は決して人間の物質的肉体がシャム双生児のようにくっつき合っていたという意味じゃないんだ。霊的な身体の問題を言ってると思ってほしい。
藤本 霊的な身体?
半田 うん。さっきから僕が身体空間と言っている身体における前後、左右、上下という空間のことさ。背中同士のくっ付き合いということは、特に自他の身体空間における前後を問題としていると思ってほしい。
藤本 太陽が男・男の背中合わせ、地球が女・女の背中合わせ、月は男・女の背中合わせというやつですね。
半田 うん。とにかく話を分かり易くするために図を書いて説明してみよう。
藤本 お願いします。
半田 まず、今、僕と藤本さんがモノを挟んでこうして向かい合っているとしよう。青い矢印が僕の「前」と藤本さんの「前*」を表し、赤い矢印が僕の「後」と藤本さんの「後*」を表している。僕と藤本さん、それぞれの前と後はこの図のように互いに重なり合って存在させられていることが分かるよね。
藤本 はい、確かにこの図のような関係になっていますね。
半田 さて、さっきも言ったように前は現実として”見えている”ものであり、そして、その奥行き方向は完全に潰されているので、視野空間上においては長さ無限小にまで縮められてモノの中心点と重なって同じものに見えているはずだよね。
藤本 視野空間は面としてしか見えていないからそういうことになりますね。
半田 そして、このとき気をつけなくちゃならないのは、この無限小にまで縮められた「前」はもう3次元空間(x,y,z)の中のz方向としての奥行きではなく、それは時間でもあるのだから4次元としての方向を持っているということなんだ。
藤本 分かります。モノだけの世界ならばモノからの空間の広がりは3次元と見ていいけど、そこに観測者、つまり見ることが関与していると、その見るという出来事が起こっている空間は4次元になっているということですね。
半田 おお、優秀!!ヌーソロジーの言ってることが呑み込めてきたね。
藤本 半田さんの分身ですから(笑)。
半田 するとどうなる?この4次元方向は3次元空間の中で見るとモノの中心である0点付近にごくごく短い4次元の矢印として入り込んでいるということにならないかい。
藤本 3次元の中に映し出されるのであればそういうことになりますね。
半田 だろ。で、ちょっと信じ難いかもしれないけど、さっきも言ったようにこの潰れた奥行きの中には一秒前のモノ、一時間前のモノ、一週間前のモノというように、それこそモノの認識を支えている記憶の連なりがイマージュとして入り込んでいる。つまり持続の場所になっているわけだ。
藤本 モノの背景にある空間の方向のすべてが縮まって全部入り込んでいるということですね。。。
半田 うん、奥行きが射影として潰れているということだから、アバウトに言えばそうだ。ヌーソロジーのいう精神の位置だよ。そして、こうした精神が僕側だけではなく、当然、藤本さんの前である前*側にも存在している。だから、藤本さんの精神*も今度は、僕の精神が入り込んでいる方向とは逆方向から同じく極めて短い矢印としてモノの中に入り込んでいるってことになる。
藤本 モノの中心点を中央にして、長さがほとんどゼロに等しいお互い逆方向の矢印として入り込んでいるというわけですね。
半田 だね。これら二つの矢印を図として表すとこんな感じになる。
藤本 あれぇ〜、僕と半田さんそれぞれの前が身体ではなくモノの中心から始まってます。これはどうしてですか?
半田 「前」が主体であるということが分かるとモノの手前に存在していると思っていた身体の位置がモノの中心点にあるように感じてくるからだよ。
藤本 身体がモノの中心点にあるように感じてくる………?
半田 うん。普通、僕らは自分の身体が見えているモノの手前側にあると思っているよね。でも、これは人間の内面の意識によって把握されている身体の位置だと考えるといい。つまり、いついつの何時何分には身体はどこどこの位置にありました、っていうときの物質としての身体の位置だ。これはあたかもモノのようにして捉えられている身体だから、他者から見た自分の身体、つまり、鏡像空間に存在している鏡像的身体だってことになるよね。いつも言ってるよね。自分の顔、もしくは目玉は自分じゃ決して見ることができない。なのに僕らは他者の目に映っている自分の顔や目を想像して、それらをあたかも見えるものとして認識してしまっている。そのようにして認識された身体の位置がモノの手前にいると感じられている自分だってことなんだ。でもほんとうの主体(実像)は今までずっと説明してきたように「前」そのもののとして存在している。前はモノの中心と重なっているだろ。だから、生きられる空間に位置しているほんとうの身体というのはモノの中心に位置していると考えるべきなんだ。
藤本 それってもう肉体ではないってことですよね。
半田 うん、物質的な肉体じゃない。そこに記憶が入り込んでいるならば精神そのものと考えるべきだ。
藤本 ということは、ヌーソロジーのいう精神とはモノの中にあるってことなんですか?
半田 3次元的な表現ではそうなるね。モノの中に微小な4次元となって息づいている。つまり、僕の精神と藤本さんの精神*は背中合わせでくっつきあっていて、モノの中でこの図に示したような二本の青い矢印として存在しているってことなんだ。青い矢印は精神=男なるものを表しているから、この様子がつまり、男・男が背中合わせになっている状態だということになる。
藤本 それが太陽の子ってことですか?
半田 そうだね。モノの中に入り込んでいる精神の対化が等化されている状態だ。物質を作っている本質的な力のことさ。具体的な説明はここではできないけど、この男・男の一体化(等化)はいずれヌーソロジーの中では太陽の中で起こっている核融合の本質力として語られて行くことになるんだ。
藤本 核融合。。
半田 OCOTも言ってたろ。なぜ、太陽は燃えているのか?って。
藤本 『人神』の内容ですね。
半田 うん。太陽が燃えている理由を一言でいうと、それは創造の精神が人間に物質という概念を与えるため、と言えるだろうね。客観的世界に物質が存在する。。そうした概念はどうやら太陽の核融合が原因になっているようなんだ。いや、逆かな?人間が客観的物質概念を意識に形作っていることが太陽の核融合を起こしていると言っていいのかもしれない。。
藤本 それって、つまり、人間型ゲシュタルトそのものの力ってことじゃないですか。何でですか?理由が知りたいなぁ。。
半田 一言じゃ語り尽くせない。興味があるなら、これから先もじっくりとヌーソロジーを追っかけるといいよ。詳細に説明していくことになると思うから。
藤本 ん〜、楽しみだなぁ。分かりました。じゃあっと話を戻しますね。。反対に僕の後*と半田さんの後が結合しているものは何になるんですか?
半田 赤い矢印同士の結合かい?それが僕と藤本さんが共通認識として持っている時空のことだね。つまり、物理的客観世界の広がりのこと。これが女・女が背中合わせになった地球の子って意味だろうね。とりあえずこれも分かり易くするために図で示しておくことにするね。
藤本 あれっ、この図でも後がモノの中心点から始まってるなぁ。
半田 そうだね。人間の外面が見えてくると、モノの手前側と認識されている方向はすべて人間の内面、つまり後と見なされてくるようになるってことだよ。
藤本 ははぁ〜ん、それってつまり、モノ側から自分の方向に向かってくる矢印の方向だから、自分にとっては背後方向として見なされるってことですね。
半田 うん、しょうゆうこと。方向性が問題なんだね。
藤本 ということは、僕と半田さんの前同士がくっついたものは物質になっていて、後ろ同士がくっついたものが時空になっているってことですかね。
半田 正確に言うとちょっと違うんだけど、今はそう考えていいよ。男・男*結合と女・女*結合が物質と空間という二元性として現れているってことだね。
藤本 そうか。。二元性というのは男と女のことをいうのではなくて、男・男と女・女のことを言うんだ。
半田 うん、初めにもいったよね。宇宙を流動している力の性関係はよく言われているように陰と陽の二種類だけじゃないって。それらは「わたし」と「あなた」の関係と同じように互いに反照し合っていて、陰と陽、陽*と陰*という四値的な関係でできているんだ。つまり、陰陽が互いに捻れの関係にあるってことだね。だから、意識の構造について考えるときは必ずこの捻れを念頭において考えなくちゃいけない。
藤本 二元論という考え方そのものが二元論からは決して抜け出せない構造になっているということなんですね。
半田 二元論的な思考や弁証法的な思考の中には他者がいないということさ。だから、二元論者たちは自他さえも「二元」の関係で捉えてしまうことになる。自他は二元ではなくて、四元でしか語れないはずなのにね。
藤本 じゃあ、男・男*、女・女*ときたわけだから、男・女にも男・女、男*・女*というような二つの種類があるということですよね?
半田 そうだね。その働きを持ったところが月だと考えるといいよ。アンドロギュノス的存在の意味だね。この月の力が女・女である時空(=地球)と男・男である精神(太陽)の間を天使的な力として行き交っている。OCOT情報にもあったよね。「月は自己と他者の間を行った来たりしています。」って。つまり、月というのは人間が精神の方向を持たされている状態の象徴なんだ。これが無意識と呼ばれているものだ。だから、人間の外面と内面を持ち合わせている。言い換えれば、肉体そのもののことだね。精神が宿った物質。。
藤本 ということは、太陽が精神、地球が時空。その地球に太陽が映し出されると物質になっていて、地球から太陽、太陽から地球の往復路に月が働いているってことなんですね。
半田 キリスト教的に父と子と聖霊の三位一体と言いたいところだけど、これでは女なるものが抹殺されている。正確には父と母と子の三位一体とすべきなのにね。ここにキリスト教の欺瞞があると思うよ。イエスは単なる子ではなく聖霊としての子だと考えると、処女懐胎なんて話には絶対ならないからね。でも、人間世界が母になってしまうと、神にとっては非常に都合が悪い。なぜなら、神を生んだのは実は人間ってことになるからね。だから、隠蔽のために子を産める万能の父が必要だった。「われらがすべて神の子なり」とする万能の父がね。キリスト教だけじゃなく宗教は物質世界を見下し精神主義に貫かれているという意味で、すべて父権的なんだよ。これじゃだめだ。ほんとうのことが見えてこない。ほんとうのことが見えてくるためには、精神なる父と時空なる母が対等な存在として現象の中で向かい合わなくちゃならないんだ。
藤本 物質もまた重要だということですね。
半田 そう、精神と物質を対等なものとして見れる思考が必要だということさ。それによって、物質はそこから放たれる光の中に新しい精神を宿すことができる。。
藤本 ほんとうの子としての聖霊だ。。
半田 月の目覚めだね。妊娠だ。言葉がカタチになること。。月の中に次代の太陽となるべく新しい精神の子が生み出されてくるってことさ。そのとき、僕らは大いばりで言っていいと思うよ。僕らがすべてイエスなんだって。
藤本 わあ〜、なんかすごい話になってきたなぁ。何だかヌーソロジーは宗教を哲学や科学によって証明する作業のようにも思えてきました。アリストファネスの話にしても単なる神話的なおとぎ話じゃなくて、宇宙的な摂理を分かり易く喩えたものだということかもしれないですね。太古の人たちは今、半田さんが言ったような物質と精神の関係を知ってたんだ。きっと。。
半田 ヌーソロジーの考え方で言えば、当然そういうことになるね。人間は時が経てば経つほど宇宙的な真理から疎外されていく。でも、その疎外は単なる忘却ではなく、新しい想起(アナムネーシス)のための忘却だと考えるといいよ。宇宙は忘却の果てに必ず想起に向けて方向転換する運命にある。宇宙の意思の展進がそうさせるんだ。この発進によって人間は人間の内面に張り巡らされたあらゆる価値のネットワークの転換をはかり、そこにイデアを見出し新しい宇宙の創造を始めるビジョンを持つってことなんだけどね。
藤本 ヌーソロジーが語るアセンションですね。
半田 そう。今は月の中に眠ってて見えないけど、無意識を構成する高次元の存在物を知性の対象として把握することが可能になるってくるってことだ。そういう時代が今から確実にやってくる。だって、僕みたいなパンピーがこんなことを言っているのも、その兆候だと思わないかい(笑)。
——おわり
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6 • Tags: アセンション, アンドロギュノス, イマージュ, ベルクソン, 人間型ゲシュタルト, 人類が神を見る日, 内面と外面, 弁証法