5月 17 2017
シオリズムの「近さ」と「さなか」
そして、地球は私達の正面側には居ない・・・言い換えると、私達が地球を正面に見ようとした時は、背後側にいるため、地球と戦っているつもりが、自身の体内と戦っている、というような事となっている。。地球が憎い=自分の体内が憎い、「私が私を憎い」という自己破壊の原因。―もののけのしおり 2017年3月12日(日)
地球は私達の正面側には居ない―ここで言ってる「私達の正面側」というのは、あくまでも3次元認識における「前」のことだから、ヌーソロジーのいう「奥行き」と勘違いしないようにして下さいね。3次元認識では「前」は「見られているもの」側になっていて、それは「後ろ」も同然だということ。
「後ろ」の語源は「丑(うし)」+「ロ」。これは、絡まってもつれている空虚、といったような意味。光学的なトリックに引っかかってしまって、僕らは前と後ろさえ区別できなくなってしまっているってことだね。そこからまともな知性なんて立ち上がるはずがない。対象知はすべてトリックだよ。
「何が絡まってもつれているのか」ということになるのだけど、当然、自他における「見ること」と「見られること」の糸、ということになるね。ほんと、もう、もじゃもじゃしてる。それが人間の想念というやつだね。対象で思考している空間の風景。前と後ろの分別さえないんだから仕方ない。
「見る」という知覚は二重になっていて、前と後ろの重なりによって初めて成立するのね。赤ちゃんのとき対象が知覚に上がらないのも、赤ちゃんがまだ後ろを知らないからだと思うといいよ。純粋な前(奥行き)は持続空間だから、表象を切り取ることができないんだよね。
後ろの空間で活動しているものが言語だという言い方もできるかもしれない。自他が後ろの空間(見られる空間)同士を結合させたところに、言語による概念の生成が起こっている。僕らが現実と呼んでいるものは、皆、こうした「見られること」を共有したところに働いている概念の生成物。
自己や他者といった概念を供給するこの始原的前と後ろのキアスムがカタチとして表現されているのが、物理学が扱っている複素2次元空間だね。これが伝統的にマカバ(メルカバー)と呼ばれているものだと考えるといいと思う。
この幾何学的関係の中からいろいろな組み合わせが生じてくる。物理学だったら、スピノルを元にしてスカラー(時間)やベクトル(空間)、テンソルと呼ばれる量になり、精神分析だったら、現実界をベースにして象徴界や想像界のトポロジーが構成されてくる。仏教でいう法身・報身・応身の三身関係だね。
世界の内部性と外部性も同じで、内部性は円、外部性は双曲線という形式をとる。円はどんどん多層化し、双曲線はずっと双曲線のまま。
物質の仕組みをつぶさに分析していくというのは、認識が実体から遠のいていくということ。現代科学はこの遠のきによって発展してきたんだね。実体はとても慈悲深いので、この遠のきに対してフィードバックの梯子をかけてくれる。結果、この梯子が科学者たちには物質の構造として見えてくるという仕組みになってる。
遠のかなければ、物質に構造なんてものないんだよ。シオリズムはその”近さ”、もしくはその”さなか”の中で世界を見ているね。
ヌーソロジーの場合は、こんなに遠くまで来てしまったのだから、そろそろこの梯子を昇って、一段一段、回収していってもいいんじゃない、って訴えかけている。そんなところかな。
※画像はhttp://www.urbanpicnic-streetphotography.comからお借りしました。
7月 5 2017
反時代的なものへの狼煙(signal fire)を上げること
「時間と空間は結果にすぎない」「結果から世界を認識しても原因にはたどり着けない」。ツイッターではそういう話をずっとしています。これをもう一歩突っ込んで、―時空は結果にすぎない。時空をベースに世界を思考しても世界には触れることはできない―と言い換えてもいいでしょう。
問題は、なぜ人間は時空をベースに世界を認識、思考することを余儀なくされているのか、そこにあります。これは裏を返せば、本来、持続(時間の流れのない世界)に生きている人間がなぜ、時空という場所に投げ出されてしまったのか、そこに問いを立てろ、ということです。
持続から時空が成り立つ条件、それを明らかにすれば、わたしたちは時空の何たるかを知り、時空を超えた世界に生きることができるようになってきます。
時空というものは私たちを「一つ」という観念の中に放り込んでいます。いわゆる、同一性の温床です。そこに肉体というカタチで存在させられ、個人個人はそれぞれの主観で生きていても、結局のところ、時空/主観意識という意識の反復の中で「一つ」の中に閉じ込められています。
ざっくりというなら、この反復のループの中に生じているものが自我意識の同一性です。ニーチェからドゥルーズに至る現代思想の系譜は、常にこの自我の同一性を問題にしてきました。この檻、この反復の輪っかからいかにすれば脱出できるのか―それが哲学者たちにとって解決されるべき最重要課題であり続けてきたわけです。
問題はこの「一つ」です。時空(外の宇宙というイメージでいいです)に対する眼差しの中でわたしたちは一つにさせられている。科学者たちの「137億年前にビックバンがあった」などというセリフも、この一つにさせられた眼差しのもとに発せられているんですね。
ならば、こう考えてみてはどうでしょう。時空が一つにさせられている眼差しのもとにあるのなら、わたしたち一人一人の個別の眼差しが統合されたところに、実は時空というものが生まれてきたのだ。そうに違いない―と。
これが、時空は結果だということの意味です。ならば、時空を生み出したものは次のような履歴を持っているはずです。つまり―。
わたしとあなたとの間で「見る/見られる」という関係の中を行き交っている視線が、まずはわたしの中で統合され、次にあなたの中でも統合され、そして、それら両者もまた統合される―。
もちろん、ここで「見る」と言っているのはわたしたち自身それぞれの持続を含みもった眼差し、つまり「奥行き」のことを言っています。
このことは例のラカンによる黄金比の定義を彷彿とさせます。つまり、「わたしから見たあなたの関係が、あなたとわたしから見たわたしの関係に等しくなるとき、そこに黄金比が生まれる」―という。
そして、ラカンはこの黄金比のことを「愛」と呼びました。
もうわかりますよね。つまり、わたしたちが時空を「一つ」と感じてしまうのは、時空がひっくり返った「愛」だからです。
そして、このひっくり返った愛とは、愛がひっくり返っているわけですから、愛が全く存在しない世界、もっと端的に言うなら、虚無と言っていいものです。
物理学を知ってる方は、一度、時空(ローレンツ変換対称性)が複素空間の次元構成(素粒子構造)の中で、どのようなプロセスを経て出来上がってくるのか、その経緯を数学的に追いかけてみるといいでしょう。そのとき、どうか虚軸と実軸を見るものと見られるものの関係に置き換えて解釈してみてください。
そこには、さきほどいった、ラカンの愛の定義の運動が起こっているはずです。
その風景が見えてくると、素粒子は本来、存在しなくてもいいもの、という結論が生まれてきます。素粒子とは時空に首を突っ込んでしまっている人間の意識を、裏で時空を作り出したものの位置にまで引っ張り上げている力の流れのことなんですね。この裏の働きが潜在的なもの、つまり無意識です。
僕が素粒子のことを「潜在的変換性」と呼んでいるのも、そういう理由からです。こういうことを語っている思想家は、僕が知っている限り、世界でただ一人、実はもののけのしおりちゃんだけなんですよね(^^)。
ヌーソロジーから見ると、デジタルテクノロジーの発展を前提とした新反動主義や、同じく、科学的世界観に重きを置いた思弁的実在論といったような今の思想の趨勢は、人間を無の奥底へと落下させていくような思考態度に見えます。ヌース(精神実体の営みそのもの)の抹殺に取り掛かっている。
でも、その方向に対する力強い対抗軸がまだどこにも現われていないように思えます。ドゥルーズの言葉でいうなら、時代的に、ではなく、反時代的に、思考していくこと。そういう思考を何とか立ち上げていく必要があるんです。
精神の炎をこのまま消し去ってはいけません。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: もののケのしおり, ドゥルーズ, ニーチェ, ラカン, 奥行き, 素粒子