4月 3 2020
主体と客体のひっくり返り
近現代人は主体と客体の関係がひっくり返っている。本来は見られている側は客体世界であるべきなのに、それが主体側に回ってる。
どういうことか―。
私たちは、普通、肉体を主体と見ている。しかし、肉体とは言うなれば鏡像のようなものだ。肉体を主体と見なすことは、空間でいうなら「後ろ(物の手前を含む)」が主体化していることに同じ。なぜなら、自分の肉体は他者が見ているものであって、他者が見ている空間は自分とっては後ろ側にある空間だから。
肉体を主体と見なしたことによって、本来、主体だった世界(=前)が客体化してしまっている。
もう少し、ストレートな言い方をしてみよう。
今、皆さんの頭の中でごちゃごちゃと思考していること、思考されているもの(言語・概念)は、本来、すべて客体として見なさなければいけないということ。そして、それを見ているのが「前」としての「物」だということ。
単純に、「前が主体、後ろは客体」と表現していいかもしれない。心は前にある。そして、その心とは前にある「物」のことに他ならない。
ここでいう「物」とは、対象化される以前の物質のことと言ってもいい。「対象化」とは後ろが前を客体と見てしまっている様子なのだ。
近代以前、対象という概念はなかった。それは西洋でも同じ。物が対象化されることによって、実は主体と客体が入れ替わったのだ。
再び、物に主体を見ていく感覚を作らないといけない。この感覚は「人間の外面」が顕在化してくると、如実に湧き上がってくる。ヌーソロジーが語る精神の覚醒とはそういうものだと思ってほしい。
もちろん、ここで主体と呼んでいるものは持続(奥行き)のことでもあるわけだが、ヌーソロジーの文脈では、この「前」と「後ろ」に始まる真の身体空間を組織化していっているものが素粒子ということになってくる。
自然が作り出すものとテクノロジーが作り出すものとの違いも、この主客の転倒を考慮すればおおよその察しはつくんじゃないだろうか。テクノロジーは自然を客体としてしか見ない科学的視線の中で、いわば逆さまの生成を世界に被せている。自然は自然そのものが主体となって自身を生成させている。両者は全く別物。
認識を自然と同じ方向に向けること。
私たちは、すでにその時期を迎えている。
4月 24 2020
アフターコロナの時代にやってくる世界
OCOT情報を素直に信じるなら、人類はあと20年そこそこで劇的な変化を遂げていくそうな。その変化は「入神」という言葉で表現されていて少し宗教っぽく響くのだけど、その意味は意識の方向性がすべて精神の方向へ向く、といったような意味。物質をすべて精神として見始めるということだろう。
これは裏を返せば物質概念の消失を意味している。世界を対象として見なす意識が消え去っていくということだ。科学主義全盛の今の世の中から見れば、なかなか信じ難い話だが、しかし、そのプロセスは着実に進んでいくと言っていた。
まぁ、常識的に考えるなら、アフターコロナの時代はIT技術を背景にしたハイパーパノプティコン型の社会の到来を予想するのが順当だろうね。しかし、それでは人間は滅ぶよ。だから、この予想は見事に裏切られるはず(と思ってる)。だからヌーソロジーをやってるのだけどね。
「入神」のイメージはハイデガーがいう「世界の開け」に近い。これは、隠れていたものが露わになるといったような意味だ。物質(存在者)はその現れ自体によって精神(存在)を隠蔽しているのだが、その隠蔽も存在が行っている。しかし、存在は必然的に転回し、この隠蔽を解除する。
まるでOCOT情報だ(笑)。人間は今や存在忘却どころか、存在忌避にまで至ったと確かハイデガーは語っていた。存在忌避というのは、存在者を存在ではなく存在者によって根拠づけること。早い話、「物質は物質から生まれた」とする科学主義が持った奇妙なトートロジーだ。
OCOT風に言うなら、付帯質的統制というやつ。しかし、危機のあるところ救いもまた育つ(ヘルダーリン)——とハイデガーも言うように、今や、科学は物質を根拠づけているものがもはや物質ではないということを熟知している。だからこそ、そこ(素粒子)を開け——とOCOT情報は言うわけだ。ヌーソロジーはそれだけをバカ正直にやり続けてる。
物質はもはや物質概念を受けつけてはいない。それでも尚、人間が物質に対して物質概念で臨むのであれば、存在は人間を拒絶していくことになるだろう。そこに出現してくるのがOCOT情報が「スマル」と呼んでいるもののことだ。
入神VSスマル。。。
このコロナをめぐる喧騒も、そうした存在をめぐる意識戦争の開始の合図なのかもしれない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, コロナウイルス, スマル, ハイデガー, 素粒子