12月 18 2015
ヌーソロジーと大森荘蔵の「面体分岐」
今日は日本の哲学者の話を少し。
大森荘蔵の「面体分岐」という概念がある。これは本人の言い方を借りれば、視覚経験において「何が見えているのか」と「何を見ているのか」という二つの分岐のことを意味している。分かり易くいうと、おおよそ次のようなことだ。
今、目の前にパソコンが見えている。見えているのはパソコンのモニター部分だ。背後側のUSBポートの部分などは見えてはいない。しかし、この状況で他人に「あなたは何を見ているのですか」と問われれば、「パソコン」と一言で答えるに違いない。ここで大森が言っている「何が見えているのか」と「何を見ているのか」という違いは、こうした対象の見えと対象全体の概念の違いと言っていい。これは知覚と言語(名)の関係と言ってもいいだろう。
大森荘蔵はこの面体分岐こそが主体と客体との関係にほかならないと主張した。つまり、主体=心とは「見えているもの」に他ならないと言うのだ。彼にとって、わたしたち人間の心の在処は脳などではなく、見え姿が展開している知覚正面そのものにあるということになる。大森哲学とはまさにこうした「無脳論」なのである。
大森荘蔵の書物と出会ったのは90年代のことだったが、この「面体分岐」という概念は、ヌーソロジーが用いる人間の外面と内面という概念そのものと言っていいものだったので、当時、大いに共感、共鳴した。
大森の面体分岐は現在の人間の空間認識を根底から覆すポテンシャルを秘めていたにもかかわらず、4次元時空認識(人間型ゲシュタルト)にどっぷりと浸かった多くの知識人から手厳しい批判を受け、その後、この面体分岐の概念を哲学的に発展させようとする研究者の動きもない。
おそらく、ヌーソロジーは一番まっとうな大森の継承者ではないだろうか。大森は面体分岐を複素空間で説明することもなければ、もちろん、そこにベルクソンやドゥルーズを接続させることもなかったが、「差異」の在り方をこれほど単刀直入に説いた人物を僕は知らない。
さて、この大森の「面体分岐」をヌーソロジーの複素空間認識に対応させてみよう。
まず「面」の方だが、これは「何が見えているか」、つまり現象の直接的な立ち現れの現場のことを言うのであるから、世界の見えを構成する実2次元平面ということになる。
しかし、実平面だけではその見えを支えている持続軸=奥行きが存在していない。だから、この「面」には「見るもの」としての虚軸が直交していると考えてみよう。ここに実2次元と虚1次元からなる主観的3次元が構成される。この3次元は大森のいう「体」とは全く違うものだ。というのも「体」とは公共的な実3次元のことを言うのだから。主観3次元は大森の知覚正面と同じく極めて私秘的(プライベート)な空間である。
つまり、大森のいう面体分岐とは、客観的3次元としての「体」から単に2次元の「面」が分岐したということではなく、ドゥルーズ風に言うなら「差異」の立ち上がりを指しているということだ。その意味で、この面体分岐は正確には「時空と複素空間の分岐」を意味していると考えなければいけない。
大森は知覚正面のことを「こころ」とも言い換えたのだが、「面」に虚軸としての奥行き=持続軸が加わることによって、その概念がより安定するのが分かる。「面」における見えが刻々と変化しようとも、この変化は奥行き=持続軸によって把持され、文字通り心の中のイマージュとして活動するというわけだ。
では、人々が暗黙の前提としている「体」としての公共性、つまり、実3次元空間とは一体何なのか。それは簡単に言うなら「奥行きが他者に持っていかれてしまった空間」と言えるだろう。奥行き=持続軸が知覚正面から出て、知覚側面側へと固定されてしまったことによって意識に出現している空間だと考えるといい。
奥行き=持続軸は常に回転していると考えて欲しい。この回転が創造的知性の働きであり、ヌースの運動でもある。知覚正面の実2次元とそこに直交する持続軸としての奥行きが回転しているのなら、そこには実2次元平面の回転による3次元と虚軸の回転による3次元が二重化して生み出されていることになる。
この二つの3次元は相互に反転しているのだが、人間の意識には奥行きの回転が作り出している3次元は無意識化してしまっていて、幅側の実2次元の回転で生まれている3次元の方だけが想像的なものとしてしゃしゃり出てきている。つまり、実側を見つめている虚としての真の主体の方が認識できなくなっているということだ。
そして、この相互反転した虚と実の3次元空間が自他という形で2組存在させられている。大森のいう「体」としての3次元空間とは、これら二組が虚―虚*、実―実*というような同種結合を起こすことによって生まれてきている。実ー実の結合空間が3次元実空間で、虚―虚の結合空間の方は言うまでもなく「時間」だ。
さきほど、この公共的3次元を「奥行きが他者に持っていかれてしまった空間」という言い方をしたが、この共同視線(大文字の他者視線/ラカン)によって、自己は肉体として対象化され、同時にそこで言語(シニフィアン)が働き出すのだと考えるといい。言語は3次元空間や時間と切っても切れない深い仲にあるということだ。
ちなみに、ここに書いたすべての構造は現代物理学が露にしてきている素粒子構造の中で数式によって驚くほど詳細に記述されている。その意味で言うなら素粒子物理学とは心の構造を記述した一種の暗号のようなものと思えばいい。まもなく暗号解読法が登場し、わたしたちはポスト構造主義の行き先と現代物理学の行き先の完全なる一致を見ることになるだろう。
まことに驚くべきことだが、世界とは二組の「奥行きと幅」とで書き綴られた無限運動するテキストなのである。それがヌーソロジーがヌースとノスと呼んでいるものの本性と考えていい。
12月 25 2015
客観と主観の狭間で
霊性を意識して生きようと努めれば努めるほど、意識の外向性と内向性の葛藤は強くなってくる。その葛藤に嫌気がさして内的世界に引き蘢る人たちも少なくはないだろう。こういうとき物知り顔のグルたちは「社会的個と精神的個のバランスを取れ。バランスが大事なのだ」と常套句でハッパを掛けてくる。
正しいことを言ってそうだが、これは間違っている。「本当は徹底的に内的になれ!!」でいいのだ。そして、徹底的に内的になった先に外的なものへの開きがある。その開きにおいて人は内的であることと外的であることが全く同じことであることを知る。そこでのバランスはもはや葛藤ではなく調和である。
別の言葉で表現してみよう。主観と客観は常に対立する運命にある。それらは「最終的に一致するのだ」とヘーゲルのように嘯いてはダメだ。そういった一致は化け物しか生み出さない。なぜなら、これらは受動的な主観であり、客観にすぎないからだ。無意識に手玉に取られている。
徹底して内的になるという選択を、ここでは能動的主観と言い換えてみよう。この能動的主観が力を持ってくると、そこに必ず能動的客観というものが育ってくる。それが「外的なものへの開き」が意味することだと思うといい。
この能動的客観のもとに出現してくるのが「もの」だ。これは受動的客観のもとに現象化していた「物質」とは全く違う存在だ。
この「もの」は能動的主観が持った内的樹液に満たされており、また、他者の内的樹液との交感をも果たし、そこで内震えている。つまり「ある(存在)」ではなく、「なる(生成)」と化している。
こうした、意識の「受動的組織化」と「能動的組織化」の違いは、思考される空間の質の違いから生まれている。それが「幅」と「奥行き」なのだ。空間の質を延長から持続へと変えること。そして、その持続のもとで新しい知性を出現させること。それによって、意識は能動的なものへと転身を諮ることができてくる。
能動的客観を通して立ち現れてくる「もの」の世界は,おそらく無尽蔵のホスピタリティ(歓待)で溢れていることだろう。それを現実のものとするためにも、僕たちは世界をまずは奥行きで満たされた空間に変えていかなくてはならない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 5 • Tags: 主観と客観, 奥行き