3月 16 2018
アヌビスの秤の浮上
表象は時間の継起や空間の移動とともに変化していく。その変化を観察する「わたし」の奥底には一切変化しない不変性が眠っている。それが純粋持続というものだ。持続と表象の関係は絵巻物とその挿絵や文字との関係に似ている。その形式は実際の空間上に目撃されており、物理学はそれを波動関数と呼ぶ。
時間と空間をパラメータとして使用するしかない物理学の表現では、波動関数から時間(エネルギー)や空間(運動量)を引っ張り出してくる以外にないのだが、ここで実際に起こっていることは真逆であり、延長的な時間と空間は絵巻物としての素粒子に絶えず巻き取られていると考えるべきだ(精神への潜在的な変換が起きているということ)——下図参照。
バイスペイシャル認識で言うなら、奥行き(知覚=複素空間=持続)は幅(事物=時空=延長)を常に自身の無底性の中に巻き込んでいるのである。それがわたしたちが経験や記憶と呼んでいるもののことと考えるといい。
人間には明らかに二つの類型が存在する。これは魂の二つの領域と言ってもいいのだが、一つは、常に〈我—それ〉というレンズを通し、世界を対象としてしか考えない者たちと、もう一つは、〈我—汝〉というレンズを通して、世界を倫理の化身と見なす者たち、この二つの類型である。
もちろん、後者は圧倒的マイノリティだ。〈我—それ〉で世界を見るマジョリティの方はAIの侵攻と共に、おそらく「我」が希薄化していき、「それ」のみの生き物としてゾンビ化していく。素粒子を「それ」と見るか、「我」と「汝」と見るかによって、両者の方向性が真っ二つに引き裂かれ始めるのだ。
いや、正確に言うなら、人間個々の中でどちらの類型を主とするかということなのだが——。
OCOT情報は「人間の意識進化とは生きながらにして死後の世界に入ること」と明言していたが、「生きながらにして死後の世界の中に入る」ことは、同時に、生きながらにしてアヌビスの秤を経験するということでもあるのだろう。
3月 19 2018
天と地とを結ぶ約束の絆
ヌーソロジーの作業目的は空間に対する感受性をその根底から変えることにあります。そのためには、まず他者の眼差しを一旦エポケーし、自らの眼差しの中に息づく純粋な奥行きの中に入り込み、そこに自分自身の本性として息づく持続(根源的時間)を直観しなくてはいけません。
現象学的アプローチに近いように思われるかもしれませんが、奥行きから幅を取り除いているという意味で全く違います。現象学的還元はまだ奥行きに幅が入り込んでおり、他者構造から逃れていないのです。脱-表象化ができていないということですね。
他者構造によって構成される時空は開いています。無限の彼方が何なのか分からないわけですね。このことは、自己の精神の位置が消息不明になっていることと同意です。ですから、時空ベースで思考することは、人間が本来の自分を見失っていることでもあるのです。
この消息不明になった自己の精神の位置というのが無限遠点です。直線的世界に無限遠点がつけ加えられると、開いた空間は消え去り、円環的世界が出現してきます。それが、精神の空間だと考えるといいでしょう。
純粋な奥行きはその意味で円です。遥か前方向には自分の後頭部があるわけですね。「後ろの正面とは、実は自分であった」ということに気づくということです。
こうして、空間が精神の媒体に見え出すと、次元観というものも自然に変わっていきます。つまり、そこには直線的次元はもはや存在しないも同然ですから、従来のような、点、線、面、立体、時間、といったような次元観は、精神の営みを無視した極めて暴力的な次元観に感じてくるのです。
ヌーソロジーのいう「次元」とは、空間そのものを精神と見なすわけですから、精神の秩序を構成するための差異の系列のようなものになります。それらはすべて円環をベースに構成されていきますから、必然的に球空間で構成されていく構造を持ちます。その基礎はイデアとしてのプラトン立体から構成されています。ヌーソロジーがヘキサチューブルと呼ぶものですね(下図参照)。
ただし、次元はすべて双対的(自他の相互反転関係を意味する)に拡張していくので、その合間合間で、双対的なものが変質を起こし、直線的場を作り出してきたりもします。この直線的な場の方が、結果的に、現在、人間が時空と呼んでいるものになって現れているものと考えるといいでしょう。
つまり、本来、時空というものは精神に従属して産み出されてきているものだということです。ヌーソロジーが「時空は結果にすぎない」といつも言ってるのも、そのような意味からだと思って下さい。
時空とは、精神の対化が自分たちの活動を物質として表現するために生み出した「無」の場所なのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: プラトン立体, ヘキサチューブル