3月 22 2018
来れ、シリウスの世紀よ—カタカムナ、ハイデガー、ドゴン族
カタカムナ人たちが見ていたというトキトコロノマリ。それはハイデガーのいう存在と存在者が作る二重襞のイメージに近い。存在者は時間と空間の明るみに出つつも、それを送り届けた存在の方は潜在的な静寂の中に身を隠すのだ。彼は何処に—。
ハイデガーにおいては、この存在論的差異の乗り越えは大地、天、神的なものたち、死すべき者どもの関係性から思索することでなされる。ヌーソロジーにおいては、位置の変換、転換、等換、融和の関係性から思考される。この二つは図式的には似ている(下ケイブコンパス図参照)。
ドゴンのシリウス神話にも、これと全く同じ思考を行っていた形跡がある。それは—「10」の不動の記号—と呼ばれている。
—創造というメカニズムは「10」の不動の記号(二つの〈先導-記号〉と八つの〈主-記号〉)が、動いていく〈完全な〉記号に生命を与え、それが物を存在させるのだ、ということになる。『青い狐』p.76
二つの先導記号の一つは四元素を脱け殻にする。もう一つの〈脱け殻の記号〉の役割は、はじめの〈先導-記号〉の統括の下に創り出された混合体に用いられた四元素の脱け殻を、魂と生命力の貯えである〈主-記号〉に送り届けることである。—同p.77
前者がたぶん思形ψ9。そして、後者がたぶん、感性ψ10。
(ドゴン族のシリウス神話をガセとしてあざ笑っている連中が多いんだけど、そういう連中は『青い狐』を読んだのかね。アレはすごい本。誰も内容を理解できないので売れなくて絶版になってるみたいだけど、個人的にはホントすごい本)
ヌーソロジーが用いるケイブコンパスが示す二重襞は、そのままバイスペイシャル認識(幅支配の空間と奥行き支配の空間の二重性を意識にあげること)に対応している。
バイスペイシャル認識は、そのままモナド感覚をクリアに描像するための条件のようなものにもなっている。モナド化(包みつつ包まれる)—とは、奥行きで包んだものは幅においては包まれるようにして現れることを意味する。言うまでもなく、このとき「包まれるもの」が、物質だ。
ここで奥行きを持続と見なすなら、もはや、物質と精神の区別は意味を無くす。表象の膜が破れ、見るものと見られるものが一致した生成の思考が生まれてくるわけだ。それがヌーソロジーがヌース(能動知性)と呼んでいるものだと考えるといい。
物の外部から内部へ、翻って、物の内部から外部へ—。ヌースは思考をそのように展開し、今まで潜在的なものとして隠れていた超越論的なものを、その思考の中に経験していく。ヌーソロジーが「覚醒期」と言うものは、そうした新しい思考で世界が満たされていく時代のことを言う。
来れ、シリウスの世紀よ。
3月 23 2018
人間を変形(トランスフォルム)し、宇宙的胎児へと変えてていくためにヌーソロジーが選択した方法論について
タイトル、長 !(笑)
今日もまた執拗にヌーソロジーのエントランスの話。ここは手を変え品を変え、何度でも話していく。いひ。
今、自分の眼の前にリンゴがあるとしよう。「人間の内面」では、リンゴは下図のようなイメージで捉えられている(下図1)。
こういう概念枠で世界を見たとき、「わたし」はどこにいるのだろうか?肉体として捉えられる「自分」だろうか?そう考えているのが、普通の良識というものだね。
しかし、いかんせん、知覚の現実はそうなってはいない。「自分の前にリンゴがある」とは、こういう状況を示している(下図2)。
こうした空間をヌーソロジーでは「人間の外面」と呼んでる。「人間の内面」と「人間の外面」。。違いが分かるかなぁ?違いがすぐに分かる人は、ヌース的センスがある。分からない人は、さようなら(笑)、うそ、分かるまで考えようね。
ここに示した「人間の内面」を男の空間、「人間の外面」を女の空間と呼んでいいかもしれない。この二つの空間は全く別物なのに、今の僕らはゴッチャにしている。いや、正確に言うと、「人間の内面」が「人間の外面」を従属させて、抑圧している。それが結果的に、人間を苦しめ、世界の何たるかを全く分からなくさせていると思っていいと思うよ。いつも言ってるように、これらは社会的個として生きる「わたし」と、精神的個として生きる「わたし」の関係のようなものだ。
この図1と図2だけど、哲学者の大森荘蔵も、これらの関係を「面体分岐」と呼んで区別したんだ。ただ、この呼び方だと図2(面)が図1(体)の一部でしかないように聞こえてしまって、「人間の外面」があたかも「人間の内面」の空間の中に含まれているかのような印象を与えてしまうよね。
ヌーソロジーは両者の間には絶対的な差異があるよ、と言いたいのね。別個の生き物なの。だから、はっきりと別物として見ないとダメ。
じゃあ、たとえば、どんな差異かと言うと、図1では「わたし」は空間の中を動き回る存在として理解されるけど、図2では「わたし」は決して動かない。TPV/FPV(三人称視点と一人称視点)の関係だね。つまり、図1では、「わたし」は様々な位置で物を見てるってことになるけど、図2の方では、「わたし」は一つの位置で様々なものを見てるわけ。つまり、絶対不動の「わたし」になってる。
不動ということは、図2の「わたし」の方は3次元空間の中にはいない、ってことだよね。じゃあ、どこにいるのか—当然のことながら、3次元の外にいるってことになる。その3次元の外を「無限遠点」という場所にしよう—というのが、ヌーソロジーの考え方。
このへんはシュタヌー本でも書いたけど、数学では3次元空間に無限遠点を付け加えると、3次元射影空間というものになるのね。
だから、図2の空間は、本当は3次元射影空間というものになってると考えなくちゃいけない(下図3参照/xyzに対して直交してるってこと)。このとき、「見る」=奥行きというのは原点への射影線になっていて、これは図からも分かるように、4次元空間の方向にあるんだ。
つまり、4次元意識というのは、自分は動いていなくて、世界の方が動いていると考えるところに、そのベースがあるということだね。
このときの4次元が、ヌーソロジーが「真の奥行き」と呼んでいるもので、時空と絶対的な差異を持ってる方向ってことになる。で、ここにベルクソンのいう「純粋持続」が生まれていると考えるわけだ。
で、この4次元方向を「虚軸」と見なして、4次元における自他関係を考慮しながら、現代物理学が素粒子と呼んでいるものと接続させていく。
結果的にこの方向に素粒子空間の発展プロセスが展開していき、個体化のプロセス(人間の自我を成り立たせているもの)が作られて行っているのだけど、このプロセスを通して、「人間の内面」も実は「人間の外面」から作られていることが分かってくるだよね。これらのプロセスをすべて思考に浮上させて、時空の裏に息づく、自分自身の裏身体の空間を作っていくことがヌーソロジーの当面の目標ってことになる。顕在化ってやつだけどね。
………………………………し〜ん。(笑)
ありゃ、スピ大好きの女性群からは「男の思考~!!」って声が聞こえてきそうだけど、でも、そうじゃないよ。従来の女に騙されてはダメ。これは、女の領域に男であったものが救済に入っている、って見ないといけない。精子(ロゴス)が卵子(パトス)に侵入しているわけ。というのも、人間の外面を思考しようとしているわけだから。
ヌーソロジーが意識変容のために何でこんなリジッドな方法論を取るのかというと、こうした差異の思考が生まれて初めて、人間は物質的意識(人間の内面の意識)から解放されると考えているから。無意識を能動的に意識化することによって、初めて今までの意識の勢力を沈静化できると考えてるってこと。
感覚に即した思考を自動機械のように反復させるのではなくて、感覚自体を変容させる思考を感覚に抗って作り出していくことが反転における反-思考というもの。幾何学的構成(カタチの形成)はそのための強力な力になると思ってる。
ここで生まれてくるカタチこそが卵割であり、宇宙的胎児の誕生なんだよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, 内面と外面, 大森荘蔵