4月 6 2018
ヌーソロジーが考える「次元」の話をしよう
OCOT情報にいう「次元」とは、延長空間の自由度の指標ではなく、持続空間の差異の系列のことをいう。「次元」は意識には触覚や視覚など、感覚の違いとして現れているという。例えば、光と音は全く違った「次元」の現象だということ。
最も基本的な次元は「点球」と呼ばれ、触覚として現れる。これは人間の認識でいうところの一つの物体の内部の空間に当たる。この空間に直接触れることはできないが、触覚は物体に触れることによって、点球を一つの「隔たり」「嵩張り」として知覚する。最も原始的な空間知覚と言っていい。
当然、触覚には「触れている」感覚と「触れられている」感覚が同居している。人間の意識において、どちらが先手に来るかと言えば、おそらく「触れられる」の方だろう。触れられるという「地」の上に、初めて触れるという「図」が浮き上がってくる。幼児で言えば母と子の間におこる原初の関係だろうか。
母に触れられ母に触れる。母にしてみれば、子に触れられ子に触れる。この変換の中点のことをOCOT情報は「重心」と呼ぶ。面白いことに、OCOT情報においては、この「重心」が「神」だと言う。
「点球」はいわゆる「物体」を象る領域と考えていい。ただ、一口に物体と言っても、自然には石ころから人間の肉体に至るまで様々な構成物がある。これらの多様性は精神の多様性に由来するというのがOCOT情報の骨子だから、「点球」は上位のすべての次元の活動が凝縮して射影される位置とも言える。
「点球」は最も基本的な次元と言ったが、これは「性質」が交差する原初の次元の位置といったような意味だ。「性質」とは精神の相殺によって生まれる力のことをいい、OCOT情報に拠ると、それは「人間が生まれている状態」であるともいう。
つまり、人間の思考は未だ点球の中に閉ざされたままであり、精神が作り出す「次元(持続空間の差異)」には及んでおらず、それらは受動的に諸感覚として経験させられているということなのだろう。
「点球」は知性化されると延長認識を生む。ベルクソンのいうところの「物質の弛緩」だ。シュタヌー本にも書いたが、時空とは点球をただいたずらに拡張させたものでしかない。尺度概念もそこに生まれる。その意味で、尺度を基盤にした物質科学とは「点球」で閉ざされた思考体系と言えるだろう。
「点球」が触覚経験でもあったことを思い出して欲しい。触覚は物体の内部を「かさばり」として感覚化するが、そこに直接、触れているわけではない。つまり、尺度の思考は「触覚ですらない」ものを追いかけているということだ。そこにすべての宇宙を見ようとするなら、それは虚無としか言いようがない。
もちろん、これは科学の思考を一方的に批判するものじゃない。付帯質的統制の極限に精神への反転が開始する、というのがヌーソロジーにおける「永遠回帰」のシナリオでもあるのだから、むしろ科学は順当にその役割を果たしている。量子論はその芽吹きのようなものだ。
「点球」の外部には精神が活動する広大な次元が無限に続いている。点球はその精神の無限の歩みを自らの内部に鏡像のように映し込んでいる。私たちが物質の根底に見出している素粒子とは、点球の外部へと方向性を持たされた第一段階の生きた「次元」の生態であり(ヌーソロジーでは「次元観察子」と呼びます)、それが、私たち人間の自己意識を作っている。
当然、反転認識の目覚めにおいて、私たちはそれらとの直接的な合一化を果たすことになる。
※下写真の元図は@wrxg5のツイッターよりお借りしました。
4月 10 2018
物質的生態学から霊的生態学へ(1)
●自然は人間を憎んではいない
僕はどうもエコロジーというのが苦手だ。エコロジー思想の根底には、「人間は全体の中の一部であり、その意味では特別な存在ではない」という平等主義的な人間観がある。「すべての生き物はおしなべて全て平等であり、全ての生き物が等しく生命の尊厳を持ち、それぞれに生きる権利を持っている。これらの権利を人間が一方的に剥奪し、自分たちの快楽のために自然を陵辱することは許されない。」こうしたディープエコロジストたちの主張は確かに至極まっとうな意見に聞こえるのだが、果たしてこれは本当だろうか?
1999年、『もののけ姫』というアニメ映画が大ヒットした。この映画の中で動物たちは次々とタタリ神となって動物神としての高貴な心を捨て、自分たちを迫害した人間たちに復讐心を燃やす。もののけの姫であるサンはありったけの憎悪を込めて「人間は許せない」という台詞を吐く。
地球規模での環境の危機が叫ばれている今日、こうしたメッセージは確かに分かりやすい。しかし、野生動物たちを擬人化して人間が諸悪の根源かのように思わせる表現手法は、逆に動物たちまでをも人間化して道徳的な存在に変えようとする極めて人間主義的な態度のように思えないこともない。自然は無為であり無垢である。そこで展開している生死のドラマには善も悪もない。こうした神聖な生死の有り様に、僕らは「ああ、何てかわいそう」という同情の感情を上塗りし、その感受性を免罪符代わりにしてはいないか。事実は『もののけ姫』もまた自己満足的なカタルシスとして消費されていく商品にすぎないのだ。
おそらく自然破壊によって死滅させられていく動物たちには、サンが持った人間に対する憎しみなど微塵も理解することはできないだろう。彼らは自らが滅ぼされてゆくことに何の感情も持つことなく、また、その理由さえも何も知ることもなく姿を消して行くだけなのだ。それだからこそ、僕ら人間は全自然に対して計り知れない責任を負っていると言うべきではないのか。エコロジーがいくら生命中心主義を唱えようと、それは人間中心主義の枠を出ていない。結局のところ、すべてが自分かわいさゆえの自然保護なのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 09_映画・テレビ • 0