7月 12 2013
時間の三つの、いや四つの在り方
時間において現在というものが成り立つ条件とは何だろう。まず瞬間の反復。次に、それを裏支えする持続。三つめがそれらを瞬間において観照するもの。それによって、今、今、今という現在の反復が成り立ち、時間が流れる現在として意識化される。。これがドゥルーズのいう第一の時間のイメージ。
次に記憶が成立するためには、こうした流れる現在の諸瞬間が過去として一般化されなければならない。つまり、あのとき、かのときというかたちで古い現在の序列が見えなければならないということ。このためには第一の時間自体を観照する別の持続が必要になる。これがおそらく第二の時間のイメージ。
この第二の持続が結果的に現在を現在として反省させ、「今は現在だ」という形で表象化されるということなのだろう。この第一と第二の時間は円環を描きグルグル回っている。それがドゥルーズのいうクロノスの時間。この時間の環は現象の変化と決して切り離すことのできない有機的時間と言える。
ドゥルーズは第一の時間を受動的総合、第二の時間を能動的総合としているが、構造的に見ると、これらはヌーソロジーでいうところの感性的時間と思形的時間に対応していそうだ。幼児期(7歳ぐらいまで)の時間感覚と学童期(13歳ぐらいまで)の時間感覚。ここから時間が現象とは乖離し始める。?
ドゥルーズの議論だと、この後、第三の時間の総合としての「空虚な時間の形式」が登場するのたが、おそらくこれが直線的な空間化した時間(ベルクソン)ではないかと思う。しかし、なぜ、直線化してクロノスの蝶番が外れてしまうのか。。おそらく、これはフーコーがいう主体の二重化に関係している。
ポスト構造主義者たちはまだ明確にはしていないが、自己と他者間のクロノス的時間の構造はその構成が反転していると考えられる。近代的な主体の回路が「他者の他者」として自我を形成することだと考えれば、クロノス的時間が持った凹凸回路は相殺され、平板的な時間が現れることになる。
これはおそらく大地から垂直に立ち上がっている時間ではないかと感じている。星々の巡りとともに地上を覆っていた円環的時間はここで解体され、宇宙空間の無限の深みに向けての空虚な時間が空虚な「我」とともに出現してくる。しかし、この時間の出現はドゥルーズに拠れば「回帰」の予兆である。
おそらく、わたしたちは第四の時間というものを発明しなくてはならない。それがこれから新しく変身を遂げていく「奥行き」ということになるのだろう。記憶の女神ムネモシュネはそのときゼウスと一体になる。
7月 19 2013
わたしたちはモノの内部にいる ヌースビギナーズ2
今日は「わたしたちは実はモノの内部にいる」ということについて簡単にお話しておきます。 この感覚をしっかりと把握するためには、まずは時間の成り立ちというものについて考えなくてはなりません。
まず、時間は最低でも二つの要素で成り立っていると考える必要があります。一つは継起の時間。もう一つが持続の時間です。普通はこの二つの要素がごっちゃになって、「時間が流れている」という感覚が意識に生まれています。
たとえば時計の針がカチ、カチ、カチと音を立てて時間を刻んでいくときの情景を思い浮かべてみましょう。このとき、一つの「カチ」の音が継起に当たります。一方「カチ、カチ、カチ」を一気にまとめてイメージしているときが持続です。
音楽なら一つの音符がポンとなったときが継起です。「このメロいいなぁ」と音符の流れを一気にイメージしているときが持続です。 継起は瞬間にすぎないので、この二つの要素がないと、音楽を音楽として感じ取れないし、時間もまた流れとして感じることができないことが分かります。
以前、「人間の内面」と「人間の外面」という相互に反転した空間の形を紹介しましたが、この時間における二つの要素が生まれている場所は、そのままこのそれぞれの空間の形の中に当てはめることができます。
物理学が示唆する内容から見ると、継起が生まれているところが「人間の内面」で、持続が生まれているところが「人間の外面」です。(下図参照)
「人間の内面」側はモノの手前に自分がいると思っている空間です。「人間の外面」側は単にモノが見えている空間です。いつも言ってるように、この二つの空間は互いに反転しています。この二つの球空間をクリアにイメージしたいときは実際にモノの周りを回ってみるといいでしょう。
そのとき、モノの手前側を半径とする円とモノの背後側を半径とする円の二つが生み出されてくるのが分かります。モノの手前側を半径とする円は継起する時間が生まれているところに当たります。「遠くは過去だ」というように、モノと自分との間の距離はそのまま時間の長さになります。
一方、モノの背後側を半径とする円の方は持続の場所と考えられます。皆さんも何かに熱中しているとき時間があっという間にすぎる経験をされたことがあると思いますが、そういうときは、モノの手前にいる自分というものが意識されてないときです。つまり、持続の中に直接、身を置いているわけです。
この二つ球空間の関係が実数次元で言うならば、4次元時空(人間の内面)と4次元空間(人間の外面)の関係に当たります。
さて、ここからが重要なところです。4次元時空の方はモノの”手前”にいる自分がイメージされていますから、モノとこのイメージされた自分との間に「距離」というものが想定されています。いわば、主体と客体が分離しているわけですね。
しかし、4次元空間の方にはもはや「モノの手前」といった場所は存在せず、そこにはモノの背後の奥行きがあるだけです。ましてや、この奥行き方向の線は点にしか見えないので、時空から言えば、極限にまで縮んでいるとしか言えないような線です。
つまり、この持続が詰まった奥行きの線は時空側においてはモノと認識されているものの中に小さく小さく縮んで入り込んでいる、ということになります。
こうしてわたしたちはベルクソンがその哲学的直観のもとに言った「われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである。」という言葉の意味を幾何学的描像を持って正確に理解できることになります。
「わたしたちはモノの内部にいる」 のデス。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, 入門編, 外面と内面