11月 10 2017
「物質」が目の前にあるということ
SU(2)からの時間と空間の発生は、ドゥルーズ風に言うなら、潜在的なものによる現働的なものの構成である。すなわち、生起—出来事—立ち現れ。現働的なもの(現在)は、そこですぐに潜在的なもの(過去)へと連続的に移動し、潜在的なものは現働的なものを常に無時間の中に記憶を通して支える。
ハイデガーは存在論的差異としてこの仕組みを見抜き、ドゥルーズはその批判的乗り越えとして、潜在的なものの顕在化に真の意味の「差異」を見出した。SU(2)を認識に浮上させること。それは時間と空間の間に挟まって活動する精神の覚醒を意味する。それは「対象を主体へと再転回させること」でもある。
私たちには、対象が時間と空間の中にあるように見えているが、それは現働的なものの世界から見た対象の姿にすぎない。対象は時間と空間が作る亀裂の中にその本質を隠している。それが物質の本性だと考えないといけない。
抽象的な観念を心的表象の上でいくら弄んでも、私たちは潜在的なものに触れることはできない。この空間は単なる形式ではなく、力の実体の力動である。私たちは奥行きを通してこの力の運動を一つの霊感として感受する必要がある。この回路の中に流れている力は「わたし」自身なのであるから。
対象知は、たとえそれがいくら精緻に思考されたとしても、現働的な外延(時間と空間)の産物にすぎない。科学的思考が生成に触れることができないのもそのためである。いかにして鉱物は成るのか、いかにして鉱物は植物と成るのか、いかにして植物は動物と成るのか、いかにして動物は人間と成るのか。科学にはこの答えは「絶対に」出せない。
その生成変化はすべて潜在的なものの中で生起している。それは物質ではない。物質とは、潜在的なものが現働的なものを構成したときに、現働的なものが見る潜在的なものの外皮にすぎないからだ。潜在的なものは現働的なものが姿を現わすと同時に隠されるのだ。
この存在論的謎を解く、おそらく最も重要なカギが量子物理に顔を出すSU(2)にある。このSU(2)は永遠の我と汝が上演する愛のロンドのようなものだろう。わたしたちのすべての情熱を供給する旋回のダイナモ!!
君にはその回転音が聞こえるだろうか。
11月 28 2017
倫理のトポスとしてのSU(2)
あらゆる事物がその内に理念の活動を秘めている。言い換えれば、あらゆるものが、その内で思考しているということ。そして、その思考がそれぞれの事物を事物として発生させている。鉱物であれ、植物であれ、動物であれ、人間の肉体であれ例外はない。その思考(存在)にどうやって触れていくか。それが、これからの時代に生きる人間の課題だと思ってる。
おそらく、あらゆる事物の発生プロセスの原-理念はSU(2)にある。これが思考されなくてはならない。ドゥルーズ風に言うなら、この空間構造が巻き込みと繰り広げの原器になっている。ヌーソロジーでいう「人間の元止揚(ψ1〜8)」と「人間の調整質(ψ9〜10)」の関係だ。(下図1)
時間と空間は人間の意識の発生に対応する。そこにSU(2)で構成されたものが事物として立ち現れる。その意味で言うなら、一切の事物は時間と空間の中で活動しているのではなく、SU(2)内部の理念的な活動が、その都度その都度、時間と空間の発生とともに立ち現れていると言った方が正しい。
ドゥルーズのいう〈出来事〉という概念もそのような意味だ。
bi-spacial認識が生まれてくれば、SU(2)は自他相互の奥行き(持続空間)の交わりによって構成されている空間でもあるので、かつての内在/外在という区別は、自然に消え去っていく。要は「外」という超越を抹消させて世界イメージを作っていくことができるということ。
これは、スピノザ的な「すべてが内在」となった倫理的な世界の土台が浮上してくるということでもある。
反転した世界認識に最初に訪れてくる世界感覚だ。次世代が育て上げていくべき世界感情とも言ってもいいだろう。
SU(2)は持続空間が時間と空間上に事物を表現していくに当たっての自己-他者間の絆のようなものだ。倫理的なもののトポスと言い換えてもいい。この相互扶助的な持続の活動は数学的には複素共役として表現され、そこでの虚軸の結合の在り方の違いが時間と空間となって出現してくる。(下図2)
時間と空間、そして、そこに立ち現れる物質。すべては愛の賜物であるということになってくるわけだが、この愛は無意識の愛であって、自我が語る現行の愛ではないので、このあたりは混同なきよう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), スピノザ, ドゥルーズ