10月 2 2018
人間の内面の空間と感性空間の関係を分かりやすく図にしてみた件
「空間は3次元」と言われたとき、君はその3次元の広がりをどのようにイメージするだろうか。もし、目の前にある物をそのまま膨らませるようなイメージで3次元空間をイメージするなら、それは人間の内面の3次元であり、そうした空間認識は自我性を強くすると考えるといい(下図1)。
この矢印の方向が重要。この3次元はこのリンゴを見ている自分の顔面に向かってきてるよね。この顔面が位置する面に対して「内面」と名付けていると思うといいよ。
となると、人間の外面方向に向けられた3次元空間というものがあることも分かる。イメージとしてはコレがソレ(下図2)。3次元が反転しているのが分かるよね。これが「感性」が働いている空間で、この空間が「人間の外面(奥行きとしての持続空間)」に関与している。つまり、主観的空間だということ。
通常、3次元空間のこうした向きづけの違い(右手系か左手系か)は問題にされないのだけど、自他空間の相互反転性が見えてくると、とても重要な問題になってくる。人間の3次元認識というものがいかに暴力的で、正しい世界の見方を阻害している一大要因になっているかが分かってくる。空間に対するそういう盲目的状態を「付帯質の中和」って呼んでいると思うといいよ。自他が物質的同一性を持った空間の中に単なる肉体として投げ込まれているってこと。
物体1個の周囲の空間はヌーソロジーでは次元観察子ψ3~4と定義されるので、今の二つの図が示している空間の位置をケイブコンパスで示すと、次のようになるね(下図3)。最初のやつが思形による物質空間への関与。後のやつが感性による持続空間への関与。言語(物質)空間と知覚空間の違いと言ってもいい。
ケイブコンパスで示したレッドの領域はいずれも幅の空間なんだけど、人間の内面であるψ4と、人間の外面ψ3を交差する感性の空間の違いは、哲学的に言うなら、「被投的空間」と「志向的空間」の違いのようなものになる。どちらも体験されている空間には違いないけど、頽落的か現存在的かということだね。
ちなみに、科学的な表象空間と言うか、物理学の土台となる時空間は、ここで示したψ9~10の領域には存在しておらず、思形と感性が相互変換行うψ11~12の領域登場してくる。つまり、ヌーソロジーでは、知覚の空間、世俗的空間、科学的空間というのものを、すべて質が違う空間として考えるんだね。
で、一番大事な空間は僕らにまだ一切、知覚されていない持続空間で、これがブルーで示されている領域だと考えるといい。人間の意識は絶えず中和(レッド)側が先行し、ブルーの領域が見えていない。ほんとは、ブルー側が精神そのものなんだけどね。
空間に対する見方をゆっくりでもいいから変えていくこと。本来の空間は僕らが今常識にしているものとはまったく違うもの。それが見えていないので人間の文明は生命の力をどんどん衰退させる方向に進んでいっている。空間に対するゲシュタルト変革を開始しよう。後の世代のためにも。
ちなみにOCOT情報が「人間」についてどう語ったか―。
見えないものに関与されている力。
次元が見えないもの。
精神を方向に持たないもの。
付帯質に変換されているもの。
次元が交差していないもの。
形質に操作されるもの。
確実な次元を持たないもの。
この抽象度の高さがたまらんね。
ここにある「見えないもの」というのが時間性のことで、これが人間の意識を付帯質(物質)の世界に閉じ込めている。奥行きに純粋持続を見出し、そこから空間を変質させていくことが「精神に方向を持つもの」の意になる。
10月 3 2018
元止揚(げんしよう)という概念について
今回は「元止揚」という概念について。
「止揚」には、もともと「二つの対立する方向の力を統合する」という意味がある。だから「人間の元止揚」という表現には、「人間の意識活動の元となるために対立しあう精神の統合化として生まれてきたもの」といった意味合いが含まれている。
人間の意識において、この元止揚は物質として出現しているものすべてに当たると考えていい。つまり、物質世界とは、人間の意識を活動させるために高次の精神の対化が止揚されて生み出されているものだということだ。それが人間の存在の母胎(元)となり、そこから人間の意識活動が開始されていると、とりあえずは考えよう。
その意味で、高次の精神の全体側から見るなら、人間の意識活動とは自分たちの活動の最先端に位置するものであり、そのような場所をヌーソロジーでは「総体の内面」の方向と呼んでいる。「内面」とは進化の方向を指す。一方、人間の意識に見える物質世界は高次の精神全体からは「総体の外面」に当たる。
これは、総体の外面は、真実の意識(精神の全体性が持つ意識)にとっては自分たちの精神の履歴のようなものに見えていることを意味している。
精神進化の最先端は、物質として人間の肉体に集約されているので、総体の外面に見える精神の総体性が他者身体。総体の内面に方向づけられているのが自己身体ということになる。
自己身体のみが奥行き(持続)を持つように現象化しているのも、そのような理由によると考えるといい。また、総体の精神は人間の純粋持続の中にその姿を現していると言ってもいい。
もちろん、他者サイドにおいては、この関係は逆転している。つまり、総体自体も内面と外面をキアスムとして持っているということだ。
さて、ここからは物理学と関連することだが、総体の内面と外面の差異は物質の質量として現われる。つまり、質量とは総体の外面から総体の内面を形作るまでの精神の力が生み出している力に由来しているということだ。一方、エネルギーとは、その力を人間が人間の内面方向に融解させているものと考えていい。人間の内面は総体の外面方向に当たる。つまり、人間の内面の意識は、精神によって作り出された質量を逆方向に反転させる方向を持っていることになる。このとき生まれているのがエネルギーと呼ばれている物だと考えるといい。
この関係を、かの有名なアインシュタインのエネルギーと質量の等価式E=mc^2で見るなら、次のようになる。
c=i(光速度=虚数単位)と置けば(この置き換えはあくまでも比喩です)、E=mc^2とは、E=-m。その意味で、OCOT情報は、c^2(光速度の二乗)のことを「融解質」とも呼んでいる。この「i × i =-1」は、わたしたちが時間と呼んでいるものの本質と考えていい。つまり、時間とは精神が溶けていってる状態なのだ。その融解物としてエネルギーが発生している。
つまり、E=mc^2の本質的な意味とは、スピノザのいう所産的自然と能産的自然の関係が最もシンプルに象徴化されたものだということ。能産的自然が質量を作り、所産的自然がそれをエネルギーとして消費する。
質量を生み出すためには付帯質を精神へと変換していくことが必要だ。その意味で、OCOT情報は「質量とは変換の形質」とも言っている。これは、精神の力を構成するものが幾何学的な純粋思考の力であることを意味している。すなわち、それが「カタチ」だ。もちろん、このカタチは時空上の形ではなく持続空間上のカタチのことだ。
そして、この「変換の形質」による生成物である持続空間上のカタチに「プラトン立体」というものが深く関わっている。人間の元止揚部分を形質化させたものがヌーソロジーが「ヘキサチューブル」(下図)と呼んでいるものだと考えるといい。これは、総体の外面から内面方向に向けられた「負荷」のカタチであり、このカタチの認識によって総体の内面が開かれていく。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, スピノザ, ヘキサチューブル, 元止揚