12月 30 2008
時間と別れるための50の方法(61)
●無時間の中へ
人間型ゲシュタルトはつねに時間の中に根を張った思考を持っています。それは人間の意識というものがヌーソロジーがいうところの中和の場を生息地として現象化しているからです。中和における思考は全体より部分を、永遠より一瞬を、存在より存在者を、そして何より肯定より否定を先手に持つ性格を帯びています。何ものも存在しない「無」から一体いかにして「有」が生まれたのか。一瞬はどのように寄り集まって時間の流れを作るのか。個体はいかにして全一なるものと一体化できるのか。こうした問いかけは、すべて中和の名のもとの思考であり、このように「無」という否定的なものが先手を取った思考が生み出す問題はおそらく永遠に解決を見ることはありません。「無」とは存在の付帯質の異名だからです。
中和の中に身を置いた思考は思考すら時間の産物と見てしまいがちです。137億年前にビッグバンが起こり、その後宇宙は膨張を続け星々を生み、やがて太陽系が生まれ、地球が生まれ、その地球上に今度は生命が生まれた。そして、その進化の先端に人間という種が存在しており、その種の中の一つの個体としての「わたし」が、こうして今、思考を働かせている。。。このような考え方はすべて歴史(時間)が自然を作ったという人間の思い込みの下に書かれた存在のシナリオです。時間に支配されたこの中和の思考を僕らはそろそろ逆転させる時期に来ているのではないでしょうか。すなわち、歴史が自然を生んだのではなく、自然が歴史を生んだのだと誰はばかることなく英断を下すこと。
歴史の創造が自然の一部であるのならば、自然は当然のことながら歴史を消しさる能力をも具備しているということになってきます。無時間における自然。ただそこに在りてあるもの。何一つ理由を問われることもなく、ただ在りて在り続けているもの。人間の意識が自我の頑な自己同一性から解放されていくためには、歴史が去勢されたこの自然そのものを具体的にイメージすることが必要になってきます。
無時間の中の星々とはなんなのでしょう。無時間の中の地球とは。そして、無時間の中の大地や海とは。こうした疑問に答えるためには無時間の素粒子や原子の在り方を直観する眼差しが必要となります。この眼差しによって初めて思考は物質に触れ、所産的自然における受動的な綜合者から能産的自然の中の能動者へと変容を遂げていくことになるのです。
というところで、ヌーソロジーの公式サイト『ヌースアカデメイア』のコンテンツから「七の機械」に関するテキストとそのビデオクリップを紹介して、このシリーズの締めにしたいと思います。次元観察子ψ9以降の解説を目的とした次回シリーズ『4つの無意識機械(仮タイトル)』もどうぞお楽しみに。
——NC generator ver, 1.0 七の機械
“それ”は回る。“それ”は回り続けている――。
“それ”は人間が人間であるために必要とするもの――表象、言語、感情、思考、セックス、自我、国家、戦争、平和、テクノロジー、そして神――おおよそこれら諸々のものを生産し、供給し、配送し、消費するために、いまこの瞬間も、世界中のあらゆる場所で、人知れず回り続けている。
“それ”が作り出す回転の中で最小かつ最大のもの。
その謎めいた回転のことを哲学者たちは永劫回帰と呼んできた。永劫回帰において、世界は完成に導かれると同時に、その起源に立つ。
生成されるものの受容器であったものが、同時に生成されるものを創造する原動機へと変身する奇跡的な事件――。
永劫回帰としての“それ”は、ミクロとマクロ、自己と他者、過去と未来、男と女、生と死といったすべての二項対立を超克し、そのアンドロギュノス的聖域の中で、僕ら人間の営みのすべて支える実体となるべく、世界のありとあらゆる現象をジェネレートしてゆくことだろう。
NC generator、通称、七の機械。
それは“それ”が作り出す回転を私たちの居住するこの地平に出現させることを目的としてアセンブルされた理念的構築物(イデアル・アーキテクチャー)である。
1月 9 2009
失われたシリウスファイル発見さる!!
古い資料を整理していたら昔懐かしいフロッピーディスクが引き出しの奥からひょろんと出てきた。古いMacBookに付属したディスクドライブでファイルを開いたところ、何と紛失していた「シリウスファイル」の一部であることが判明!!
だははは、超ラッキー。以前、旧アカデメイアのサイトでシリスファイルの原文を公開していたが(
現在も閲覧可能)、19930313までに止まっていた。僕の記憶では1995年の3月にオウム事件が起こる当たりまでOCOTとのやりとりは続いていたので、約2年分のファイルが行方不明になっていたことになる。今回、見つかったファイルは1994年の分だ。プログネタとしては格好の材料なので、解説も含めながら少しづつ公開していこうと思う。ただ解説と言っても、ごくごくアバウトなものであることをご了承願いたい。ヌーソロジーが世界への視座をどのように転換させていこうと考えているのか、その臭いだけでもかいでもらえばそれで十分である。●交信記録19940130-1
水素原子とは定質のことですか。
はい、そうです。内面性における付帯質の覚醒を生み出したときに在するものです。
ということは、水素分子とは定質の対化のことですか。
力の交差の方向性。中和の交差が起こったときに定質の対化となります。つまり、次元の対化です。力の交差が反対側を向いているということ。
ヘリウム原子とは性質のことですか。
はい、性質と反性質が性質の対化の意味を持ちます。
●水素とヘリウム
詳しい構造まではまだ明確に見えないが、OCOTたちには水素とヘリウムという元素は人間という次元の意識の存在を活動させるための受容器のようなものとして見えているようだ。ここにある「定質」と「性質」という言葉は、あくまでも人間の意識における定質と性質という意味であり、ヌーソロジーが用いる観察子の概念で言えば、ψ11とψ12に当たる。これは簡単に言えば、人間の無意識(外面)と意識(内面)という意味を持つと考えていい。つまり、
人間の無意識構造=水素
人間の意識構造=ヘリウム
という言い方ができるかもしれない。実際、宇宙には水素原子は単体ではほとんど存在しておらず、水素分子というペアの形で生成している。これは次元が対化でしか存在し得ないことを暗に表していると思えばよい。対化とは言うまでもなく「わたし」と「あなた」に集約される、存在の淵源にある二元性のことである(ヌーソロジーはあくまで「二元論」である)。
水素やヘリウムを単なる物質としてしか見れない現在の人間の思考様式にとっては、水素やヘリウムが人間の意識や無意識とどのような関係を持つのか想像もつかないが、今まで『時間と分かれるための50の方法』でも再三にわたって示してきたように、水素やヘリウムを構成している陽子や中性子は人間が経験している外面と内面の空間の全体性をすべて綜合し凝縮化させた構造を持っている。原子核の中で回っている核子のスピンやその周囲を回っている電子などは決して物質として表象される存在ではなく、意識が空間を把握するときのカタチそのものだと考えると分り易いのかもしれない。
たとえば、球体イメージを目の前の空間に描いてみよう。そのとき同時に空間全体が3次元的な広がりとして現れる。意識はその球体を球体然として把握するために、その周囲をグルグルと回っているはずである。こうした意識の運動力は時空に依存してはいない。半径10cmの球体だうろうが、それこそ半径137億光年の球体だろうが、自由自在に描像が可能だ。そして、ここが肝心なところなのだが、こうした描像力には他者からの視点が必要となる。ヌーソロジーでは陽子や中性子が持った回転とはこうした視点群の一括把握の時間的投影と見るのである。陽子は外面であり凝縮化(内包)として現れ、中性子は内面であり弛緩(外延)として現れる。
目の前に球空間を想像してみよう(下図1参照)。そこには中心点となるものと球空間を覆う球面がイメージとして現れる。その時点ですでに君は他者から見たその球空間のイメージをも包摂させている。中心が陽子で、球空間のふくらみ自体が周回する電子である。もちろん、この球空間の大きさはさっきも言ったように自由自在に調整できる。そして、このとき中性子はその球空間自体を「図」として浮かび上がらせている「地」としての空間の広がりと言えるだろう。
つまり、先に示した人間の無意識構造=水素、人間の意識構造=ヘリウムという文脈から言えば、人間の無意識構造=精神はモノ=物体というかたどりの概念の中に入り込み、人間の意識構造=付帯質はそれを図として浮上させる周囲の空間(時空間)の中に反映されてくることになる。そして、このような認識構造のカタチが自己側と他者側、双方からキアスム(交差配列)として存在させられていることによって、そこに主観や客観を含めた人間の世界に対する認識の形式がそれこそアプリオリに生まれてくることになる。水素分子とヘリウム原子とはこのキアスム構造に由来するものだ。
宇宙空間を満たす水素とヘリウム………それは宇宙空間を一様な時空として認識している人間の意識の認識構造そのものの投影であると考えてみるのも面白い。つまり、人間の意識からそうした時空認識の力が除去されれば、そのようなものは跡形もなく消え去るかもしれない、ということだ。
By kohsen • 04_シリウスファイル解説 • 7 • Tags: 付帯質, 内面と外面