1月 24 2006
光の固有値
前回のブログで複素平面上の十字とは身体の空間であると書いた。科学通の方にはさぞトンデモと響いていることだろう。まぁ、それはそれでいい。論理的なことは全部、次回の本の中で書こう。問題はいかにして量子の存在をわたしたちの生と結びつけるかだ。そうでなければ、物質の内破力は生まれない。物質を内側が食い破ること。それがヌースの目的なのだから、そのためには情動の強度を伴わさなければならない。
身体には、それこそ無数のベクトルが潜在化している。このベクトルには五感を通していろいろなものがあるが、ヌースはとりあえず「視覚」に焦点を絞っているので、ここではそのベクトルのことを「眼差し」と呼んでおこう。
君が世界に対して何かを指向するとき、その眼差しはその何かに向かう。街をぼっーと歩いて、あっ、あの娘、美人だ!!おっ、いい男。とかいうときにハッとして意識が一本の矢印となって他のものが一切見えなくなる、あの瞬間を思い出して欲しい。ヌース理論ではこうした実存の眼差しのことを「ベクトル」と呼ぶ。物理学者たちがベクトル波動関数やベクトルポテンシャルと呼ぶものは、こうした眼差しの潜在性(ぼーっとした状態)のことをいうのだ。意識がぼーっとした状態とベクトルのグルグル。これらはヌース的文脈では同じものだ。
さて、ベクトルは回転群の3次元表現でもある。つまり、一つの対象がグルグル回ってこそ、一つのベクトルが生まれるのだ。かわいいあの娘子のことを追いかけるとき、君の眼差しは彼女を捉えて離さない。そこには横顔が見えたり、肩のラインが見えたり、後ろ姿になびく長い髪が見えたり、形のいいお尻が見えたりするだろう。〈ううっ、俺はストーカーか?〉。その一つの眼差しの中に彼女の全身から発するエロスが充満する。まぁ、そういうことだ。
しかし、「わたしが対象を見るとき、対象もまたわたしを見ているのだ」というラカンのテーゼを使えば、彼女のエロスもまた、僕の眼差しを弄ぶかのように、一つの眼差しを向けている。見るものと見られるものの間には、こうして、絶えず二つの眼差しが交差を行っていると考えるべきだ。物理学的に言えば、これがスビン1と−1というやつである。
さて、光子にはもう一つスピンの固有値0というのがある。これが僕らをヌースでいう人間の内面的現実に導く。つまり、僕の眼差しと彼女の身体からのエロスの語りかけが相殺を起こし、そこに事物という物質像が結ばれるのである。彼女を一生懸命見つめていたところ、「おい、半田、おまえこんなところで何やってんだよぉ〜。この間貸した千円返せ。」と顔見知りの友人に突然,声をかけられたときなどがそれに当たる。眼差しの中に充満していたエロスは一瞬で吹き飛ばされ、通りの向こうでウィンドウショッピングをしている彼女の姿は、普通の街行く女性へと一変してしまう。そこには、人間の内面認識の空間、すなわち、——ボクノイチカラ、カノジョノイチマデ,ヤク20メートルアリマス——という量的な空間が現れるのだ。しら〜とした覚めた空間。。これが物理学がスカラー場と呼ぶものだ。ここでは、僕自身の眼差しさえもが、秒速30万kmという早さとして物質化される。堕ちた光の土地である。
光の固有値1、0、-1の場。僕らはこの三つの場所をまずは一つの出来事、事件として生きている。
※この描写はフィクションであり、あくまでも実在の半田とは関係はありません。。。ほんまか?
2月 15 2006
貧乏人のもてなし
トンデモだ、やれ電波系だ、などと揶揄され続けてまもなく10年。ヌースももうじき脱皮の頃かな。ヌースが空間認識の数学化にこだわっている理由はただ一つ。それは、人間の認知構造や、自他における主観規定、さらには客観規定といった無意識構造の基盤が、素粒子空間と同一のトポロジーとして為されていると考えているからだ。もちろん、その精緻な数学化が今後進み続け、両者の構造が同定されたとしても、それらが同一の存在である、という言明はできない。実験方法は今のところ不明だが、とにかく何らかの検証が為される必要性はある。まぁ、それも君の夢想と言われてしまえばそれまでだが、個人的には見通しは極めて明るい。
これは言い訳だけど、僕は自分がトリックスターであっていいと思っている(というか、現在の自分の能力ではそれしかできない)ので、あえて未熟な運転技術にも関わらずアクセル全開で飛ばしている。認識の幾何学化と素粒子のトポロジーの接合作業が、ヌース理論のキモというわけではないのだが、物質=精神という一元論的世界観を世界に召還するためには、これは、どうしても乗り越えなければならない一つの重要な課題なのだ。
僕は、人間を取り巻いている多くの不幸の原因は、知覚世界と三次元世界の主従の転倒関係にあると思っている。知覚世界がまず先にあって、そのあと三次元世界が想像力のもとに生じてきているだけなのに、後手の想像の場である三次元世界の方を実在の場だと勘違いしてしまっている。ビックバン理論、進化論、科学的世界観が語る宇宙像、人間像は、ほとんどが後手優先のイデオロギー世界だ。こうなると、必然的に人間は「世界内存在」として時空の中に呑み込まれ、身体は単なる物質的肉体としてしか解釈されることはない。最近,脳科学がやたら活況を呈しているが、僕にしてみりゃ、あれは迷宮だ。やはり問題を複雑に考えすぎているとしか思えない。問いが悪ければ答えは出てきようがない。
その点、ヌース理論は単純だ。心の在処は肉体なんかの中にはない。それは、この現象知覚とともにある、と考える。ただそれだけ。こうしたことは現象学の立場から哲学者の大森荘蔵が執拗に連呼していたことだ。大森氏は知覚と三次元世界の分離のことを「面体分岐」と呼んでいるが、その「面」と「体」についての具体的な関係性の中に入っていくことはなかった。道具立てが足りなかったように思う。
世界内存在がどうして生まれてきたのか——ハイデガーもそれについては十分に述べていない。彼がここでドゥルーズのようにその起源を他者論に求めて行っていれば、存在論にあれほどこだわることはなかったろう。いやブーバーとだって接点を持てたかもしれない。
「他者はわたしの知覚野の中に現れる客体ではなく、わたしを知覚する別の主体でもないのだ。他者とは何よりもまず、それがなければわれわれの知覚野の総体が思うように機能しなくなる様な、知覚野の構造そのものなのである。」
(ドゥルーズ「原子と分身」)
ここにラカンが入ってくるとかなりヌースの構造論の輪郭に近づいて来る。ヌースがいつも引き合いに出す鏡像原理における反照性というやつだ。そもそも「わたし」という自我存在の規定となる肉体自体、他者の眼差しの中に対象化されているものなわけだから、主体が肉体にいるはずはない。ラカンがデカルトを皮肉って出したテーゼ「われ思わざるところに我あり」というやつがこれにあたる。ここで、じゃあなんで、脳が障害を起こすと「わたし」は機能停止になるのよ?という単純な反論が素朴実在論者サイドから出てくるわけだが、その問いに説得力を持って答えていくためには、ドゥルーズが「襞」と呼んだ高次元多様体の多重な実態構造を順を持ってある程度、解明して提示していく必要がある。
しかし、これを学問的なレベルで極めるにはかなり高度な数学的知識が必要だ。ヌースは無謀と知りつつも、これに挑戦していこうとしている。大変だ。ラカンも数学が得意じゃなかった。そして、性格が悪かったせいか(笑)、数学者たちもラカンの仕事に特別、興味を示さなかったようだ。1970年代にラカンの仕事が現代数学と結びついていれば、ものすごいことになっていたかもしれない。最近復活してきた超ヒモ理論だって無意識構造の理論と見る視座がとっくに生まれていたに違いない。
無意識構造をこうした空間のトポロジー構造の複合構造体として考えてみようという発想は実は日本にもあった。京都学派と呼ばれる西田幾多郎や田辺元たちの思考の足跡の中にそれは見つけることができる。ただ、彼らはあまりに早すぎた。実際、西田の説く「場所の論理」や「絶対矛盾的自己同一」の概念のアウトラインをあますとこなく数学として記述ためには、トポロジーは言うに及ばず、現代幾何学の最先端の概念が必要となるだろう。でも、それが現れてきているのだから、その意味では受胎の時期はいよいよ迫ってきているのだろう。
ネットで検索した範囲しか分からないが、まだ、人間の心と物質をつなぐ性的作業は専門的にはどこも行われていないようだ。砂子さんぐらいかな。産業に奉仕する実学も大事だが、それよりもっと重要なことは、今や崩壊の一途を辿っている大きな物語(価値)を復活させていくための新たな知の再編集作業である。僕は無知蒙昧な一介のドシロウトに過ぎないけれど、自分の心がそれを作れと叫んでいる。だから、トンデモと言われようが電波系といわれようが、やがてやってくる待ち人を迎えるため、たとえ粗末でもなけなしの金をはたいて、お祝いの晩餐のテーブルを用意するしかないのだ。——「ようこそ、本当の君。やっと会えたね」と言いたいじゃないか。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: ドゥルーズ, ハイデガー, ラカン, 大森荘蔵, 素粒子, 西田幾多郎