11月 16 2018
三種の神器における「たま」について
後ろ(見られている空間)で世界を見てしまうと、本来の前が内部化して、物の基盤である物質粒子となって現れる―数学的にこの仕組みをストレートに表しているのがケーリー変換というやつだと思ってる(下画像はhttps://www.slideshare.net/yutohorikawa/cayley-57826500より借用)。
自他においては前後が逆なので、当然、こうした変換が二組考えられ(内部/外部が逆になる)、それらを等化するところにSU(2)やSL(2.C)という群が作用している、って感じだね。それによって、空間の外部と内部を差異化させる「物」とともに時間と空間を作り出されてくる。次元観察子Ψ9~10表示のケイブコンパスはこのプロセスに至るまでの知覚空間の階層秩序を表現している。
そういえば、この内部/外部の分離問題に対して、OCOT情報が「それは三種の神器における『たま』のこと」と言っていたのが面白い。こんな感じだ。
三種の神器とは?
玉とは転換のこと。
転換を持つものすべて。
剣とは対化のこと。
カガミとは精神の方向性のこと。
精神が反映を持つこと。
新しく次元が生み出されるときがカガミ。
ここで言っている「転換」とはヌーソロジーでいう「位置の転換」という概念のことで、次元観察子Ψ8の領域に対応している。さっき紹介したケーリー変換が立体化して球体とその外部が生まれる場所のようなものだ。物の顕現と言っていいだろう。まさに「玉」の出現だ。
この辺りのOCOT情報は、中沢新一氏なんかが言ってる、日本古来の「たま」の思想との親和性を感じさせる。OCOT情報の実際は、それより遥かにハイパーだけどね。
「モノ」と「タマ」
確か、中沢氏も「ものとの同盟」という論考の中でハイデガーに触れていたと思うけど、ハイデガーの「性起(エルアイグネス)」における〈時-空〉という概念も、この仕組みに近い。つまり―それをそれ自身のほうから現れてくるとおりに、それ自身のほうから見えるようにする―ということ。
一度、中に入って外に出てくるような認識を作らないと、外のことなんて分からないんだよ。科学的思考はそのあたりのことを全く押さえていないものだから、世界を無茶苦茶にしてしまう。向かうべきは外じゃなくて内。外についても内側から語ることのできる内なる知性(ヌース)を作って行かないと。
11月 19 2018
美しきスフィンクスへと変身していくために
今回は現代思想がらみのお話。
ポストモダン思想の中核を担っていたドゥルーズ=ガタリ(以下、D=Gで記す)の思想は民族主義の再燃による保守化の動向とともに過去のものとして忘れ去れられつつあるが、ヌーソロジーとは驚くほど相性がいい。ガタリのエキセントリックな部分はあまり好きじゃないが、背後で援護射撃するドゥルーズが加われば、このデュオはやはりゲッコー兄弟のように強力なのだが、これにヌーソロジーが加担すると、超人ハルク並になる(笑)。その、あらましを少しだけ紹介しておこう。
彼らにとっての宇宙的無意識の流動場とも言える「器官なき身体」は「人間の元止揚」=ψ8~7、人間の欲望を作り出す欲望機械は「人間の感性」=ψ10、その欲望を抑圧するように働くパラノイア機械は「人間の思形」=ψ9に当たると考えていいだろう。
続くψ12~11(ヌーソロジーでは反定質と反性質)は、D=Gにとっては「独身機械」というものに当たり、D=Gに拠れば、この独身機械の領域に資本主義の「脱コード化/再コード化」のシステムがプラスされてくるとしている。
D=Gが説くこのような無意識構造の理論に空間的なトポス(空間の中にこれらの構造を見せるということ)を与えるのがヌーソロジーの役割ではないかと強く感じている。つまり、私たち人間の意識を作っているアプリオリを空間上に浮上させるのだ。
そして、「それが素粒子のシステムになっている」というのミソだ。つまり、人間の無意識構造と素粒子構造が一致を見るということがハッキリしてくれば、まさに、主客一致の意識領域が人間の前に開示することになり、人間が現在持っている世界認識は、その根底から変わっていかざるを得なくなる。
グローバリズムと反グローバリズムが衝突し合う今の時代は、すでに観察子構造がψ12~11からψ14~13の境域へと向かいつつあることを意味している。OCOT情報にいう「人間の最終構成」だ。ψ14はネグリ=ハートの「帝国」と呼ぶものに当たるが、ψ13の方は「※マルチテュード」と言うより、もっと異質なものでないといけない、というのがヌーソロジーの主張。
※ネグリ=ハートは「現在のグローバルな主権と資本主義の支配下にいるすべての人々」のことを〈マルチチュード〉と呼び、この〈マルチチュード〉こそが〈帝国〉に対抗する主体となる」―と言っている。
それは、D=Gの表現を借りるなら、再び、「器官なき身体」の内部に侵入を果たす民衆のことを指すと言っていいのではないか。ドゥルーズの言い方なら、潜在的なものの反-現実化を実行する「やがてやってくる民衆」というやつだ。ヌーソロジーが現在行っている「顕在化」の思考作業はその民衆の作業の一環に当たると考えている。これはネグリ=ハートの言うような政治的闘争は生み出さない。もっとメタなものだ。
資本主義機械のベースに当たるパラノイア機械は集団幻想を作り、欲望機械は個体幻想を作り出している。D=Gのいう「器官なき身体」は、集団か個かの葛藤から抜け出た方向性で活動している。もちろん、今の僕らがその世界を見ることは不可能だが、少なくとも、それを見出す方向に思考を転回させることが重要。
ヌーソロジーからの分析だと、D=Gが語る「器官なき身体」というのは「物自体」の世界と言っていい。いわゆる主客未分離の即自的世界だ。欲望機械はそこに戻ろうとして意識を方向付けているが(感性=ψ10)、その欲望に禁止の抑圧をかけてくるのがパラノイア機械としての人間の思形=ψ9だとイメージするといい。
この構造は、そのままフロイトの〈パパ-ママ-ボク〉のオイディプス三角形の関係に当てはめることができる。ボクは抑圧されるボク(自我)と抑圧から逃れようとするボク(エス―真の主体)の二つに分断され、意識は絶えず双方の間を反復させられている。こりゃ苦しいぞ、おい(下図下)。
反転した時空(ケイブコンパスのψ5の領域)をカタチとして認識することがいかに重要な意義を持つかがこの配置図からも分かるだろう。観点が球面を起こし、外的中心を見出すことは無意識の主体の位置を発見することに等しいわけだ。この発見がボクをオイディプス的体制から解放させる契機となっていく。
かなり説明を省いて書いたので、分かりにくいかもしれないが、ヌーソロジーは歴史発達や心理発達についても予想だにしなかった角度から繋がってくるはずだ。乞うご期待!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: OCOT情報, ケイブコンパス, ドゥルーズ, フロイト, 素粒子