11月 22 2018
神秘学の脱-神秘化に向けて
フッサールの現象学が問題にする主客問題というのがある。客観と主観、どちらが先か。主観からいかにして客観が成り立つのか。主観と客観の一致は可能なのか。そういった問題をアレコレと考える。この主客問題についてのヌーソロジーの整理はおおよそ次のような感じ。下図を見ながら読んでね。
まずは、①幼年時代。赤ん坊から幼児の時期のこと。フロイトのいう口唇期、肛門期、男根期などがこの時期に当たるが、この時点で意識は主観も客観も持たない。感性が元止揚空間に関与している段階で、主観となる場の基礎を作っている段階と考える。
7歳頃から意識発達は思形の位相に入り始め、人間の内面に関与を行い始める。いつも言ってるように、この段階になると、左方向からの仮想的な視線が生まれ始め、それによって、②客観の芽生えが起こる。奥行きの幅化が意識化されてくるわけだ。(次元観察子の序数はほぼ年齢に対応していると考えていい)
それによって、対象とそれを見ている自分の分離感覚が生まれ、その分離が表象の像を安定化させてくる。幼児の描く絵が像をしっかり結んでくるのも、この分離の効果と考えていい。当然、このことは意識における「現在=瞬間の継起」の表象化と深く関連している。
客観意識の芽生えの反映として、感性が働いているところに③主観が生じてくる。現象学は、主観から客観が構成されていくものと考えるんだけど、このようにヌーソロジーでは客観と主観の成り立ちは客観がわずかに先だっていると考える。主観は客観が反映として送り出してくるものと解釈するわけだ。
人間の元止揚(ψ1~8)はこのプロセスにおいて、どのような役割を担っているかというと、客観を構成していくための無意識の発達の能動力として働いている。感性はこの元止揚があるから意識を秩序立てられたものとして感じ取ることができる。
ヌーソロジーが現象学と違って格段に面白いのは、こうした構造を担っているものを素粒子として考えるところだね。要は、総体の外面(人間の元止揚の領域に物質として凝縮化した精神)と総体の内面(再び精神化していく物質)のちょうど結節部分に人間の意識の働きが生まれているということ。
ヌーソロジーが徹底してヘルメス主義的(古代哲学的)アプローチ(物質世界は精神の影だと考えるということ)を取っているかが分かるんじゃないかと思う。つまり、ヌーソロジーは伝統的神秘学の脱-神秘化に取り組んでいるわけだ。
その意味では人間の精神はまだカタチを持たない精神の原形質のようなもの。これからだよ。総体の外面側に人間を閉じ込めているすべての抑圧から精神を解き放っていかないといけないね。そこには目の眩むような絶対的未来が開けていると思うよ。
11月 26 2018
ヌーソロジーと精神分析
今日は精神分析とヌーソロジーの関連について少し。
「人間の無意識構造=素粒子の構造」という示唆は、最初にOCOT情報が与えてきたものですが、と言って、その構造をOCOTが具体的に教示してくれたわけではありません。第一、こんな話をまともに信じれるわけがありません。
そこで「なぜ、OCOTはこんなトンデモないことを言うのか」という疑問からヌーソロジーの思考は始まりました。つまり、人間の無意識構造を素粒子と重ね合わせて思考できる思考があるとすれば、その思考の実現のために果たしてどのような条件が必要なのか、その条件について詰めていったわけです。
素粒子構造を調べるためには物理学をコツコツと学んでいくしかありませんが、問題は無意識構造の方です。意識に関しては確かな理論というのはない。そこで、最初はフロイトの理論などを調べていきましたが、フロイトにはそれほど明確な構造論はありません。
「これは使える!」という閃きが最初に起こったのは、ラカンのシェーマLという図式を見たときでした。ラカンという人はフロイトの理論をベースにして、そこに言語構造を重ね合わせ、独自の精神分析の理論を体系化した人物です。
シェーマLという図式はラカン理論の基礎になるもので、下図上のようなものです。この図に示されたSとaの関係は簡単に言えば、自分のことを「わたし」と呼んでいるものと、「わたし」と呼ばれているものの関係に当たります。精神分析でいう自我(想像的自我)とは「わたし」と呼ばれているものの方です。
シェーマLはこうした対関係を二組、自己サイドと他者サイドの間に想定することによって組み立てられています。これによって、ラカンは言葉の世界とイメージの世界の関係性が自他間でどのような関係になっているかを思考し、その全体的な流動の中に真の主体を確立させないといけないと考えたわけです。
ちょっとだけ解説しておくと、aとa’を結ぶ想像的関係がイメージ相互の関係が生じるところ。SとAを結ぶ無意識と書かれてある関係が言語的関係(ラカンはランガージュ(言語)の壁という言い方をします)が生じるところに当たります。
このSとaの関係を垂質の対化(Ψ5とΨ6/空間的には前と後ろの関係)として当たりをつけることによって、まずはラカン理論が持った双対性と素粒子の双対性に深い関連性を感じたわけです。あとは、このSとaの空間イメージと、素粒子のスピン空間のイメージを一致させる描像が作り出せれば、OCOT情報がトンデモじゃないことが分かってきます。
その他、いつもお話ししているベルクソンやドゥルーズの哲学的な理論絡みなども関係してきますが、そうしたいろいろな理論を総合させながら、その結果として浮かび上がってきたのがケイブコンパスのフィギュレーションだと思って下さい。ケイブコンパスでは、このシェーマLのSはエス=ψ5、aは自我=ψ6で示しています。Aとa’はψ*5とψ*6に当たり、このケイブコンパスのウラに当たります(下図下参照)。
さて、フロイトの有名な言葉に「エスがあったところに自我をあらしめよ」というのがあります。これは精神分析の基本理念です。当然のことながら、ラカンもそれを引き継いでいます。
精神分析の考え方では、自我は疎外の中に生じている一種のパラノイアです。ラカンなんかは自我を確信することは狂気であるとまで言います。常識人は「ラカンよ、オマエの方が狂気だ」と言いたくなるところですが、資本主義社会を見ていると、確かに人間は狂っているんじゃないかと思いたくもなります。
精神分析は、わたしたちは本当の自分をほぼ全員が見失っていると言ってるわけです。つまり、精神分析というのは精神に支障をきたし正常な社会生活が送れなくなった人のための治療法というよりも、ある意味、本当の自己を奪回するための霊性運動のようなものと考えていいと思います。
ヌーソロジーは精神分析がやろうとしたことを空間認識の是正によってやろうとしているという言い方もできます。つまり、パラノイア化してしまっている「自我-エス」の力関係を正しい空間知覚によって正常な状態に戻す、ということです。
つまり、「世界は自分の外部にある」とか、「小さなものが集まって大きなものができている」とか、「世界は物質でできている」とか、これらはパラノイア化した自我が作り出した歪んだ世界の見方だということですね。本来の宇宙の在り方からすれば、まともじゃないんですよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ケイブコンパス, フロイト, ラカン