11月 29 2018
ヌーソロジーは太陽系をどのようなものとして見ているか
ヌーソロジーは占星術ともかなり深く関係している。というのも、太陽系を人間の無意識構造を発展させていく高次の精神システムとして考えるからだ。この精神システムのことをヌーソロジーでは大系観察子と呼んでいる。
大系観察子と太陽系の諸天体の関係は以下の通り。
Ω1………地球
Ω2………月
Ω3………水星
Ω4………金星
Ω5………太陽
Ω6………火星
Ω7………木星
Ω8………土星
Ω9………天王星
Ω10………海王星
Ω11………冥王星
Ω12………惑星X
先日、紹介したラカン理論の対応図と合わせると、人間の無意識は太陽を中心とした内惑星系によって働きを持たされている。Ω1はψ7に対応しているので、
ψ7………地球
ψ8………月
ψ9………水星
ψ10………金星
ψ11………太陽
ψ12………火星
という対応になる(下図参照)。
ただし、人間の意識の場合、ノス(偶数系観察子の流れ)が先行しているので、内惑星の働きが転倒している。これは精神分析的に言うなら、鏡像をベースに自我意識を発達させているということに同じ。この鏡像回路を反転させて正常な位置に戻すのが木星と土星の働き。顕在化の位置のことだね。
太陽系は時空よりもはるかに高次の空間で活動する精神体の射影なんだよね。ヌーソロジーが「宇宙には太陽系しか存在しない」と言ってる理由もそのあたりにある。
例によって、哲学的SFとして愉しみながら聞いておこう。
11月 30 2018
トランスヒューマニズムでなく、トランスフォーマリズムを!!
最近、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』という本を読み直している(カンタンという人が書いた割には決してカンタンな本じゃない。哲学本をあまり読まない人は買っても積ん読になる可能性大なので、ネット上の記事で十分)。
ヌーソロジーがメイヤスーにこだわっているのは、今まで哲学がなあなあにしていた科学的世界観と人間の意識の関係を、「物自体」に関する議論に集約させて見せたことにかなりエキサイティングなものを感じたからなんだけど、今回読み直していて、哲学にもそれこそ最終構成の息がかかってきているのをヒシヒシと感じた。
メイヤスーにとって物自体とは数学に内在する能力と深く関係している。つまり、人間はおろか、まだ生物さえ存在していなかった世界についての記述をどうして数学は可能にするのか、という問題を立て、言ってみれば、数学のイデア性に対してダイレクトに切り込んでいるわけだ。
思弁的唯物論の「思弁」とは、経験によることなく、思考や論理にのみに基づくことを言うが、メイヤスーにとって、そうした数学的観念こそが実在の名に値するものだということになる。数学を「経験」の内に含むか含まないかという厄介な問題はあるが。
これは、祖先以前性といった茫洋とした世界を出さなくとも、現実の今現在の世界だってそうだ。科学が行き着いた物質の根底は複素数で記述される数学的観念である。その意味では素粒子からなるすべての物質は数学的観念の塊であるとも言える。おいおい、物自体とは数学なのかよ?
哲学までもがこういう状況なのだから、世界がいかに危うい状況にまで達してきているのかが分かる。ヘタすると、思弁的唯物論は、世界をすべて数学的データに還元して思考するトランスヒューマニストたちの哲学的信条となる可能性もあるわけだ。そして、この両者は、その背後にともに神の到来の思想をチラつかせている。
ヌーソロジーのヌースとはもともと「神的知性」の意味を持つが、これは「物自体」と同じ意味でもある。OCOT情報では数学は精神の骨のようなもの。そのままでは神の骸骨にすぎない。
だから、メイヤスーの神の到来の予感が正しいものだとしても、それでやってくるのは髑髏の顔を持った神なんじゃないかと思う。骸骨が美しい身体を纏うためには、数学だけではダメだ。数学以外の何かが必要。それは数学自体を反転させたものと言えるのかもしれない。
トランスヒューマニズムに対してトランスフォーマニズムを対峙させていくのがヌーソロジーということになるだろう。意識形態自体の変換を!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, メイヤスー, 素粒子