12月 6 2018
ヌーソロジーは難しいものというよりも、まったく違うもの
ヌーソロジーの入門本なんかも書いてるRaimuくんのRaimu_botから次のようなツイートが流れてきた。
@raimu_mage_bot
ヌーソロジーが難しい理由は、半田広宣さんの語る哲学用語や量子力学の数式や、重厚な論理構造が難しいというのが一つと、語ってる概念を認識すること自体が難しいというのがもう一つ。前者は語り手の知恵と工夫でなんとかなる余地のある所だけど、後者は各自がセンスによって試していくしかない。
確かに、その通りだな~とは思いつつも、ちょっと補足をしたくなった。
ヌーソロジーは、最初にOCOT情報という極めて抽象度の高いチャネリング情報があって、それを解読していく過程で、神秘学、宗教、哲学、精神分析、量子論などの知識が必要になり、結果、現在のようなスタイルになっている。
実は、OCOT情報が伝えてきたことは「空間に対する認識を反転させよ」ということだけ。実際、その情報のほとんどは、反転した世界の意識風景を独自の幾何学概念で語ったものがほとんどだ。その意味でいうなら、ヌーソロジーは「難しいもの」なのではなく、「まったく違うもの」と考えて接した方がいい。
たとえば、あれほど頭脳明晰な物理学者たちに量子の本質が理解できないのはなぜか。この量子の本質は研究が進めば解明されるといった類の問題じゃない。その謎を解くためには全く別の思考形態が必要だということなんだよね。ヌーソロジーはそれを作りたいわけ。
ただ、その青写真とも言えるOCOT情報も、死海文書のようにバラバラに断片化されたものでしかないので、そのプロトタイプが意識に再構築されていくためには、それ相当の紆余曲折を経ないと無理だと思ってる。また、その紆余曲折の中で苦悩、葛藤することがとても大事。
ヌーソロジーをやるということは、その作業に参画するということでもあるので、意識が今までに経験したことのないような新種の苦悩を抱えこむことになる(もちろん、それに呼応した愉しさもあるけど)。そうした苦悩を好まない人は、ヌーソロジーには最初っから近づかない方が賢明。
まっ、それなりに異質さを理屈抜きに楽しむという選択もアリだけどね。
僕の見通しとしては、反転した意識のカタチが思考上に確実化すれば、物理学や哲学の知識も一切必要なくなるんじゃないかと思ってる。それらは、反転概念を判明なものにするための触媒のようなものなので、反転を起こすプロセスにはやはり欠かせないものって感じかな。
反転した空間は、物理学ではヒルベルト空間(量子系の状態空間の形式)として表現されており、哲学ではドゥルーズのいう差異化の空間(内包空間=スパティウム)として語られている。それを認識にあげることが空間認識の反転にストレートに繋がっている。
いずれにしろ、双方とも延長的なものではなく、持続的なもの。この延長感覚から持続感覚への切り替えというのが、哲学的センスが必要とされるところだね。それこそ、ハイパータイム的な感覚を身につけないといけない。
こうした移行がOCOT情報にいう「付帯質の外面(ニックネームはプレアデス)」から「付帯質の内面(同シリウス)」への意識進化ということになる。時間を空間のように見る、それこそ物質空間から精神空間の世界へと意識が方向を変えていくわけだね。それをシュタイナーなんかはエーテル界への参入(霊界参入)って呼んでるんだと思うといいよ。
12月 11 2018
光速度とは永遠世界への入り口
光とは人間に発見されるのを心待ちにしている精神のことだ。
光においては時間や空間の隔たりは意味をなくす。
光の中に入れば、いつでも今であり、どこでもここ。
光速度とは精神の物理学的表現だと考えよう。
光速度を奥行きの名のもとに収縮させ、
そこに身を入れること。
物自体がそこから始まる。
量子の非局所性については、すでに厳密な検証が2015年に行われている。世界は非局所性をもとに成立している。しかし、今もなお、世界に対する人間の認識は局所性を基盤にしている。そして、それに即して宇宙の歴史や人間の歴史を考えている。
ここには大きな矛盾がある。つまり、時空をベースにした世界イメージは副次的なものであり、ほんとうは非局所性を基盤にした宇宙像を作り出さなくてはいけないのだ。それが出て来れば、現在の科学的世界観がいかに歪んだものかが分かってくるだろう。
非局所性とはわたしたちの精神のことだ。素粒子にはわたしたち人間の精神が反映されている。その意味で宇宙は一つの巨大な精神体と見なすべきだ。星々も、星雲も、銀河も、決して、わたしたちと疎遠な存在ではない。それこそ非局所的相関の中でダイレクトに繋がっている。
今、待ち望まれているのは、そうした繋がりを生き生きとイメージさせることのできる高次の存在論だろう。宇宙の進化は時間の中で行われるものではなく、時間自身が進化していくことにある。物質もその進化が生み出したものであり、時間の中で生まれたものではない。
光速度とは精神の物理学的表現と言ったけど、すべての素粒子が非局所的存在なら、すべての素粒子は光速度状態にある精神の様態であり、素粒子が時空の中を運動するなんて描像はニュートン物理の幻影を引きずっている思考の産物ってことになる。つまり、全く正しくないということ。
物理学者も当然、そのことは承知しているけど、物理学に精神なんてものを関わらせたくないから、内部空間とか余剰次元とか呼んで、数学的に記述することで、それが何であるかの判断を保留しているわけだね。この頑なな防御が近代自我による、やがて到来するものに対する抵抗と言っていいと思うよ。
量子が持つ粒子性と波動性というアンビバレントな二重性は、精神の持続性(非局所性)が時空という延長世界に展開されて表現されるときの二通りの在り方にすぎないんだよ。粒子性は瞬間での精神の切り取り。波動性は時空全体への精神の射影展開。時空を無視すれば、量子とは永遠的幾何学体(カタチ)。
自我はどうしても現在を特権化して、「今に生きる」ということに執着しがちだけど、現在(時空)には常に「持続」という永遠が寄り添っていることを意識しないといけない。生きているのはそれだから。そして、できればこの永遠を特権化して、そこに新しい主体と精神の宇宙をイメージしないといけない。
奥行き=虚軸(持続軸)という空間認識の大幅な変更は、知覚の現場を時空が作り出す瞬間性と量子が作りだす持続空間との接触の現場へと塗り替える。つまり、知覚を物の中にもたらすのだ。「物が知覚されるのは物の内部においてである」というベルクソンの言葉通り、それによって、主客概念は姿を消す。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, 素粒子