6月 14 2006
金星の女
象徴界に入る際の去勢……難しい言い回しに聞こえるかもしれないが、何のことはない。人間が言葉を習得する際に受精能力を失うという意味である。いうなれば失楽園のラカン的言い回しである。象徴界とは簡単に言えば言語の世界である。人間は言語とともに生きる動物であり、言語によって社会秩序を形成している。ここでいう言語とはいうなれば一つの規律、約束事である。例えば、ここに「財布」があったとして、それを「魚」と呼んだのでは人間間のコミュニケーションは成り立たない。財布は財布と呼ばれることによってその同一性を確保し、他者との間で潤滑なコミュニケーションが確保される。言語はその意味で、諸事物の同一性を保持するために頑な規律を持たなくてはいけないわけだ。よって、辞書とは六法全書以前の原法の書だと言うことができる。つまり、お役所仕事のように、一つ一つの存在者が父が治める言語統括省によって登録されているのだ。この登録に違反する者は、意味不明、社会の規律を乱す者として、切り捨てられる。
去勢されていくもの。それは、毎夜、毎夜、君の自室で繰り返される密かなつぶやき。諦めともあがきともつかない意味のない奇声——うぐぐぐぐぐ。げげっ。くぅ〜。オレはダメな男なのか?いや、そんなはずはない。こんなはずじゃなかった。おれは、おれは………——泣くな。いじけるのは早い。そこで君は何を失っているというんだ?失っているという幻想に取り憑かれて一人悩んでいるだけじゃないか。問題は世界に去勢されていること。そこに怒りを覚えるべきだ。怒りのアングリー・インチ。12インチから10インチが切除され、わずか2インチの祖チンの快楽で君は満足しようとしている。祖チンとはおさらばしよう。役人たちの真似をしようとするから君は苦しむのだ。権威、権力、金、セックス、そんなものは二次的な遊びでいい。君の真の生殖器をおっ立てろ!!
ラカンはこの去勢に対抗する勃起器官として「√-1」、すなわちi(虚数)をおもむろに実存のファスナーを開けて取り出す。それを見て、登録役所の小役人ソーカル=ブリクモンは次のように揶揄する。
「正直にいって、われらが勃起性の器官が √-1 と等価だなどといわれると心穏やかではいられない」(『知の欺瞞』)
残念ながら、君ら(ソーカル=ブリクモン)のソレは2インチ以上は勃起しない。だから√-1 と等価にはならないので心配ご無用。ラカンが口説こうとしているのは別の惑星の女なのだよ。黄金比的プロポーションを持った金星の美女。彼女の声を聞くことが出来る人間は少ない。果たして、君には目の前にいる金星の女が見えるだろうか。
——あたしを見つめてちょうだい。あたしは明晰なのよ。見透してるのよ。
見つめてちょうだい。あたしは幸福で震えてるわ。 (バタイユ)
君の幸福を約束してくれる女は彼女しかいない。だから、そこに君は勃起器官を立てるべきだ。リリスではなくイブを探すこと。見出されたイブこそが君が待ち望んでいるヴィーナスなのだ。
主体は虚空間を通じて、世界に接している。もし君が自分を実空間の内部にイメージしているのであれば、君の身体は常々言っているように虚像であり、目(見ること)を摘出された髑髏の身体である。そこは去勢された闇の空間に包まれている。虚空間に出よう。そこには反転した世界=原空間がある。いい女だぞ。君が来ないなら、わたしが先にいただく。
6月 27 2006
双対性の思考
不連続的差異論のページで、Kaisetsu of ODA ウォッチャーズ氏から手厳しい批判を受けている。こうした正当な批判はまことに喜ばしい。批判に耐え得る理論になんとか育てていきたいものだ。
不連続的差異論のサイト/ヌース理論と新プラトン・シナジー理論から、四次元空間を考察する■イデア界と双対性の思考
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズ氏のお考えに賛同いたします。A=非Aという無のトポスの論理。これは華厳の『一即多/多即一』や真言密教の『重々帝網(即身)』などとも通じる概念だと思いますが、同一性の原理においては矛盾としか映らない言明をあるがままに調和に導いていく、こうした論理を貫く原理が双対性なのだろうと考えています。双対性の思考においては、〈A-非A〉という二項対立の図式の真の姿は、A^2/非A^2という「二乗項」よりなる対立のように見えます。A/非A*、A*/非Aという形で4値化(複素化)を決行することによって、捻れの関係の中で、そのままの姿で両立させ得るのではないかと考えています。アンチ・オイディプス風に言えば、双子のノンモですね。ひとりの双子であり、あるいは二人の双子、あるいはそれ自身において結びついているひとりの双子の語らいを取り戻すこと。そこに活路があるのではないかと。。。
こうした視点に着目したのがストロースやラカンの構造主義だと思いますが、構造主義の物足りなさは、構造を単なるモデルとしての抽象に止めている部分です。モデル化に止まる限り、それは不連続的差異の黄金比的運動を呼び覚ますには不十分です。伝統的な東洋思想においても事情は同じに思われます。思考は実在に対する人間の反動的意識に逆い、この立ち入り不能とされていた領域に「あからさまな描像」として介入すべきであり、そこに新しい身体像を構築することが必要だと考えています。イデアの顕在化が「倫理」と関われるのも、イデア自体の成立基盤に自他存在に起因するこうした双対関係が深くセットされているからではないでしょうか。ヌース理論が量子世界と4次元空間の描像に執拗にこだわりを持っているのも、そのへんの理由からです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 8 • Tags: アンチ・オイディプス, ラカン