12月 31 2018
短めに、年納めのご挨拶を
今年は何と言ってもハイデガーとの出会いが一番大きかったね。この歳になってハイデガーを読むというのも、何とも間の抜けた話ではあるんだけど、いずれにしろ、ハイデガーから吸収した養分は、来年から再開するヌースレクチャーにしっかりと反映されてくると思うのでお楽しみに。
あと、今年はヌース映画本の出版が本決まりしたのも大きな前進だった。この映画本は、以前「不思議ネット」というまとめサイトにUPされた『君の名は。』についての僕のインタビュー記事が人気を博し、この路線でヌーソロジーへの一般向けのガイド本は作れないか、という江口氏(『シュタイナー思想とヌーソロジー』の仕掛け人でもある音楽プロデューサー)の提案でスタートしたもの。
原稿の方は今年の初めにはほぼ出来上がっていたんだけど、出版社が決まるまでがいろいろと大変で、右往左往した挙句、ようやく『バシャール』本で有名なVOICE社が出版してくれることに。快諾頂いたVOICEのO社長には心から感謝している。出版予定は一応今のところ来年の春先になっているので、早ければ3月には書店に並ぶんじゃないかと思う。
この映画本、ヌーソロジー本にもかかわらず、ヌース用語が一切出てこないという画期的な本。おまけに元、臨床心理士やっていた星乃さんと、現在は「ナゾロジー」というサイトのディレクターをやってるマキシムちゃんという女性軍二人が参加してくれたこともあって、今までのヌーソロジー本には見られないような分かりやすい、かつ、POPな露出になってます。
取り上げている話題も、AI問題やポストモダン以降の若者たちの心理分析など、スピ本というより、どちらかというカルチャー本っぽい仕上がりかな。この本でヌース人口を一気に増やそうという企んでいるわけだけど、果たして思惑通りいくかどうか・・・。
映画本で焦点を当てたのは、ヌース本ではおなじみの「人間の最終構成」というやつ。ここ数年で浮き彫りになってきたのは、まさに「人間の最終構成」の風景じゃないかね。語弊がある言い方ではあるけど、これは「ヒューマニズムの崩壊」を意味してるんだと思うよ。
グローバル経済の身勝手な理屈によって経済的な貧困に追い込まれる人たち。独占資本が原因となって引き起こされた戦争で生存権を奪われる人たち。日本はと言えば、民主主義によって作られた政府が、表現・集会・結社といった基本的人権を平気で侵害するような動きを見せている。
こうした情勢は、どれもこれもが近代のヒューマニズムの名の下にもたらされてきた結果だ。だけど、今起きていることは明らかにヒューマニズムが標榜してきたものとは反対の現象で、ヒューマニズム自体が資本主義的ファシズムが用意した隠れ蓑にすぎなかったことに多くの人たちが気づき始めてる。
じゃあ、ヒューマニズムに対する信仰心が消え去っていくとき、僕らはいったい何を指標に、どこへ向かえばいいのだろうか。
ヌーソロジーの思想的立場は、一見すると、現実社会のヒューマニズムとはほとんど縁もゆかりもない。ただただ近代が作り出した科学的世界観に変わる新しい世界観の構築に勤めてるだけと言っていい。
それはなぜかというと、僕らをますます狭いところに閉じ込めようとしている力が、単に政治や経済の体制から発しているものではないと考えているからだ。
変わらなくちゃいけいないのは人間自身だ。人間という体制だ。何がこの人間という存在を生み出しているのか。それを見出さない限り、人間は常に新しいタイプの破綻を作り続けるしかない。
まぁ、このあたりがハイデガー哲学の問題意識とかぶるところではあるんだけど、僕らは、このあたりでヒューマニズムの抑圧から逃れて、人間ではないものを作っていく想像力を持たないといけないんじゃなかろうか。
もちろん、その成就には長い年月がかかるだろうけど、そこに向かって諦めずに地道に「人間ではない者」としての思考を開始すること。ヒューマニズム自体に巣食う欺瞞を払拭する方法はそれしかないと思うよ。
あらら、話が思わぬ方向へ。このあたりは話し出したらキリがないので、ヤメ。
そういうわけで、来年も亀のような歩みが続くと思うけど、ヌーソロジーをよろしくお願いします。
※下写真は今年のヌースバンケットときのもの。福岡ヌーソロジー研究会の高木純子さんのサイトよりお借りしました。
1月 7 2019
年始のごあいさつに代えて——真実のコペルニクス的転回を!!
新年明けましておめでとうございます。
今年も「奥行き」の開花のためにヌーソロジーは驀進します。
なにとぞ宜しくお願いいたします。
ということで・・・少しだけ、ヌーソロジーによる正月談義を。
正月になるとみんな「おめでとう」と口癖のように言う。しかし、一体何がおめでたいのか。日本人の九割がたはたぶんその理由を知らない。なかには「それは歳神という来訪神が訪れるからさ。歳神の大ボスは大国主とも言われていてね・・・」と得意げに正月に関するウンチクをたれる人がいるかもしれない。
でも、そういう人でも、「じゃあ、その来訪神って何よ?」と聞かれたら、たぶんだまりこんでしまう。結局、古代の知識とは言うものの、大方は言葉だけで、その実質についてはほとんどが忘れ去られている。
そこで、OCOTだったらこの「歳神」に関してどういうコメントを出すだろうか。ちょっと想像してみよう(笑)。
「歳神」とは、地球における月と太陽の等化の位置です。この位置が地球に顕在化することによって、人間の意識は付帯質の外面から付帯質の内面へと反転を起こします。「歳神」は、今はまだ調整の段階で現れるだけで、顕在化は起こっていません。顕在化を起こすものをは「大歳神」と呼ばれます・・・みたいな(笑)
さて、解説しておこう。
意外に思われるかもしれないが、OCOTのいう「歳神」はマヤ暦とリンクしている。マヤンカレンダーで有名なホセ・アグエイアスが紹介している暦に「13の月の暦」というのがある。この暦は28日 × 13 ヶ月 + 1日 = 365日で構成されているのだけど、 アグエイアスはこの余りの「一日」を「時間を外した日」と呼んで、神聖な日として解釈している。時間が外れるわけだから、その一日だけ「永遠の今」が訪れるってことなんだろう。そして、この「永遠の今」を体験させてくれる時(とき)の神こそが、到来しては人知らぬ間に過ぎ去っていく来訪神でもあるわけだ。調整の段階に反復してやってくる月と太陽を等化する精神の働き・・・。
OCOTなら、たぶん、この「時間を外した日」の意義を「歳神」と呼ぶんじゃないかと思う。この「一日」において一年(地球の公転)と一日(地球の自転)が等化され、月→地球→太陽という意識の通路が一瞬だけ開く。要はちょっとだけ太陽神ミトラが顔を覗かせるってことだ。
では、一年と一日の等化って何だ? って話になるんだけど、これは西洋オカルティズムで言う「太陽と月の聖なる結婚(ヒエロス・ガモス)」のことだね。太陽は精神の象徴。月は物質の象徴。それらがめでたく結婚するわけだから、これは精神と物質の一致、もしくは統合。そういう意味合いになる。
続けて、OCOTの立ち位置で話すとこんな感じになる。
地球は精神。月は付帯質。太陽とは精神の等化。付帯質の本質が精神の等化に当たります。ですから、月が何かを知るためには太陽が何かを知る必要があります。太陽を知ることによって月が何かが分かるのです。これは精神の等化が物質を作りだしていることと同じ意味です。
実は、こうした地球、月、太陽をめぐる存在の秘密は僕らの意識空間にダイレクトに反映されている。それを具体的に覚醒させようとしているのがヌーソロジーだと考えてほしい。
身体の周囲には物質が散在してる。これを地球を中心とした月の位相の関係に対応させてみよう。
今の人間は地球の位置からさえも脱中心化し、月の位相に自分がいると思っている。これが物質主義だ。グルジェフが言ったように「人間は月に食べられている」わけだ。人間が賢くなれば月に食べられるのを嫌がるはずなのだが、月の支配から出ようとする気配は一向にない。
月の本質は太陽なのだから、この月に太陽の重なりを見よう、と言ってるのがヌーソロジーだと考えるといい。自分の周囲にある物質には、実は精神としての太陽が降り立っている。ただし、月に重なり合っているこの太陽を感じ取るためには意識の反転が必要になる。
月の位相は地球の自転に合わせて出現してくるわけだから、その地球の自転がそのまま公転になるような空間を作り出せば、その中心に太陽が現れてくることになる。これがいつも言ってる「観点の球面化」によって怒ってくる意識の「反転」だね(下図参照)。
そのとき、僕たちは、月(物質)だったところに太陽(精神)が現れるのを見る。別の言い方をするなら、局所的一点に非局所が重なり合ったのが見えてくるってこと。
その意味で、月→地球→太陽という方向性は、そのまま意識の進化のあるべき方向性を表現していると考えるといい。精神に基盤を持った意識にとっては、物質は過去であり、未来は物質を創造していく精神に見えるってこと。そして、その未来に意識を方向付けしているのが太陽なんだね。占星術でも言われるように、まさに月は「既在」としての過去を、太陽は「将来」としての未来を示しているわけだ。
まっ、そんなわけで、ヌーソロジーは世界を一年中、正月にしてやろうと企んでます。
毎日があけましておめでとう。
そんなハッピーな世界の到来を祈って、今年も頑張るよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報