1月 29 2019
空間における四つのアスペクト
ヌーソロジーを理解していくためには、次の四つの空間の相(アスペクト)の違いが直観できるセンスが必要(下図参照)。
1.対象から広がっているように感じる空間
2.身体から広がっているように感じる空間
3.座標で切り刻んだ空間
4.持続としての空間(純粋な奥行き)
通常「空間」と言うと、1か3しかイメージされていない。これらが「人間の内面」の範疇に含まれる。
2 は身体が指向性を持っている空間と考えるといい。見失われているのは言うまでもなく4の空間だ。これら四つの空間の識別ができるようになれば、ヌースが語る次元観察子の理解が容易になってくる。
物自体の空間への侵入口は4の空間にあると考えるといい。これが意識に昇ってくれば「間」が開く。人間の内面はその意味では「マヌケ(間抜け)」な空間と言っていいものだ。
ここでいう「間」とは実在としての物が活動している空間のこと。時空で物を見ている限り君はマヌケでしかなく、実在に触れることはできない。
自己と他者の本当の共同性もこの「間」の中にある。科学的世界観が倫理に対して無力なのも、その思考性に最初から「間」が抜け落ちているからだ。
「間」を満たしているのは、文字どおり太陽(日=霊)の力である。あらゆる物は、この太陽の力を原像として持つことによって出現させられている。太陽とは結び(産霊=ムスヒ)の場である。奥行きが開けばそのことがハッキリと分かってくる。
まずは、1と2の空間の違いを直観するところから始めるといい。これらは、ヌーソロジーでいう〈思形〉と〈感性〉が作る二つの空間を意味している。〈思形〉は対象から広がる空間を作り、〈感性〉は持続に関与する空間を作っている。
「間」の空間とは、それらの間に隠蔽されている持続そのものが生きる元止揚空間に当たる。これが物自体の土台を生成している空間だと考えるといい。
「間」が開いたとき、隠蔽性は非隠蔽性へと変わり、ハイデガーが言っている「アレーテイア(真理)」の意味が手に取るように分かってくる。
1月 31 2019
物質を対象として見る時代を終わらせよう
奥行きは通常、私秘性を担保する空間と見なされている。しかし、そこには同時に独在性を担保する空間が重なり合っている。
前者を「感性」として働く知覚空間とするなら、後者は持続空間としての虚空間だ。この二重性を感覚に上げること。ヌーソロジーの空間思考はそこから始まっている。
「わたしたちは人間だ」という一般化された人間観が世界の実像を大きく歪めている。人間一般は世界に対して外在化させられている。世界に対して外在する方向ではなく、内在する方向へと意識を転換させること。
ヌーソロジーがいう〈付帯質の外面〉から〈付帯質の内面〉への次元シフトとは、そのような意味合いを持つ。
この方向覚醒が、今まで時空概念の中で一般化させられていた人間という存在を二つに分化させ、複素的存在へと異体化させる。
複素空間とはこのように自己と他者の絶対的差異化を表現している空間である。自己が虚なら、他者は実。他者が虚ならば、自己は実というように。
こうした空間認識が発現すると、無限小や無限大といった時空独自の概念は姿を消す。無限小と無限大は、自己的視座か他者的視座かの違いにすぎなくなるからだ。
自己的視座においては世界は無限小の中にあるが、他者的視座にとっては無限大の中にある。精神と物質の継ぎ目もその視座の転換性の中にある。
当然のことながら、現在の人間は互いに他者的視座において世界を構成しているので、無限大の世界を共通の世界(宇宙)と見なし、その中で人間一般を演じさせられていることになる。
こうした視座の一方的偏りが正常な世界の在り方を大きく歪めている。物質はその錯視の産物だ。
じゃあ、何が物質として錯視されているのかというと、それは正常な自他関係ということになるだろう。物質の内部はわたしたちが到達すべき理想的な自他関係で満たされている。
それが「倫理」の位置だ。空間思考が〈付帯質の内面〉に入れば、その風景が少しだけ見えてくる。
物質を外から見る時代を終わらせよう。物質は対象ではないのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 付帯質, 複素空間