2月 1 2019
バック・トゥ・バック―背中合わせの愛
地球がまだ平らで
雲は火でできていて
山が空に向かって背伸びして
時には空よりも高かったころ
人間は地球をゴロゴロと
大きな樽みたいに転がっていた
見れば腕が2組と
脚も2組あって
大きな頭には顔も2つ
付いていて
それであたりが全部見渡せて
本を読みつつ話もできて
そして愛については無知だった
それはまだ愛ができる以前のこと
(『ヘドウィグ・アンド・ アングリーインチ/愛の起源(THE ORIGIN OF LOVE)』)
プラトンに『饗宴』という作品がある。『饗宴』は登場人物がそれぞれ「愛」について語っていく形式になっていて、最後にソクラテスが永遠なる美のイデアへの愛を語り、めでたしめでたし、ということになるのだが、個人的には途中、喜劇作家のアリストファネスが語る「愛の起源」についてのスピーチが面白い。
太古の昔、まだ人間が生まれる以前、人間の原型となるべく原人間のようなものが存在していた。この原人間は2人の人間が背中合わせでくっついたような格好をしていて、顔が前後に2つ、手足が各4本ずつあって、周囲の景色をグルリと360度、同時に見渡すことができた。原人間は頭がよく、力も強く、いたずら好きだった。すっかり増長した原人間たちは、やがて神々の言うことも聞かなくなり、最高神ゼウスの怒りを買う。ゼウスはこの厄介者の原人間たちの力を弱めるために、ウラノスに命じて雷光でその身体を背中から半分に断ち割いた。こうしていまの人間が生み出され、それからというもの、人間は自分の失われた半身を追い求めるようになった。こういう物語だ。
この話は、アリストファネスが語った話だけに、コメディーとして解されることも多いのだが、たとえばドゴン神話に登場する、シリウスからやってきたノンモという天使的生物も背中合わせの双子の生き物だったし、古代ローマにおいて始まりと終わりを司る、境界の神とされるヤヌス神も、前と後ろに顔をもつ神だった。その意味で言えば、この「愛の起源」に関するアリストファネスのスピーチは、人間が愛に満たされた天使的存在だった時代の比喩的な話と解釈しても、それほど突飛ではない。
人間は、自分が本来あるべき本当の姿を見失ってしまった。人間にある愛の本能は、その本来ある自分自身の姿に戻りたいとする欲求から生じているというわけだ。
しかし、ここで素朴な疑問が起こってくる。愛なるものの起源が2人の人間の背中合わせの結合にあったとするならば、この奇妙奇天烈な愛の様式を、どのように理解すればいいのだろう。普段、僕らが普通にイメージする愛の身体表現は「抱き合うこと」であったり、「抱擁すること」であったり、「見つめ合うこと」であったりすることであって、これらいずれの身振りも、2人の人間が「前」において結合するイメージであり、決して「後ろ」ではない。
互いの「前」で結ばれないことには、そもそも男女の性愛自体が成り立たないし、背中合わせでは互いに眼差しを交わすことさえできない。もし人間の愛を愛として成り立たせている愛の起源が、背中合わせの結合にあるのだとすれば、僕ら人間は常に愛を逆さまに見ていて、愛の成就と称してもいいこの「背中合わせ」という愛の起源と、いつも出会い損ねているということになる。
深く愛し合う恋人たちは、抱き合うことの喜びとともに、抱き合うことの苛立たしさも知っている。人間が肉体をもっている限りは、愛し合う2人がたとえどんなに強く、長く抱き合ったとしても、触れ合う皮膚が同時に壁となって、決してひとつになれないリアルに直面させられる。また、その愛し合ったという事実が逆に深く相手を傷つけ、愛が一気に憎しみに翻ることもある。事実、歴史のなかでは、数えきれないほどの恋人たちの逢瀬が繰り返されてきたにもかかわらず、未だに男と女の間の諍いが絶えることはない。人間の性愛は結合しようとしても常に結合し損ねる、それこそ愛の幻影の典型のようなものだ。
そしてそのことを裏づけるかのように、性愛には生殖というひとつのアイロニーがつきまとっている。2つのものがひとつになりたいとするその欲望が、逆に新しい1を生み、2を生み、時に3を生む。なぜ、ひとつになろうとしたにもかかわらず、多が生み出されてしまうのか。生殖に見られるこの個の増殖は、2つのものの出会い損ねの修復を、絶えず未来へと託していく希望の連鎖のようなものではないのだろうか。僕たちはこの連鎖を止めたいがために、子孫にその実現を託しているのではなかろうか。しかし、僕たちが「前での結合」を愛の身振りだと錯覚している限り、この連鎖は終わることなく続いていく。あのユダヤの神の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という号令のもとに。
こうした「前での結合」という愛の幻想は「男」と「女」の性愛だけではなく、「我」と「汝」との隣人愛のイメージのなかでも起こっている。多くのスピリチュアリストたちは、覚醒の星シリウスへと到達するためには、他者に対する無条件の愛が必要であると教説する。無条件の愛、すべてを受け入れること。そして、すべてを許容すること。胸襟を開き、相手のすべてを私の心の内に招き入れること。ここでもついて回るイメージは「前での結合」である。人間が唱える隣人愛が、アリストファネスの語るように「愛の起源」の忘却による反動のようなものであるとしたら、愛を連呼することは自らの反動性に「然り」と答えているにすぎず、決してその反動性を能動性に転換させているわけではないと言える。僕たちはこの反動性から抜け出さない限り、決して「愛の起源」となる能動的なものに達することはできないのだ。
OCOT情報はそのあたりははっきりしている。というのも「人間が抱く愛とは進化の方向性を指し示すものにすぎない」と断言するからだ。そして「方向性だけでは意識進化は起こらない」とも付け加える。意識進化には愛が指し示すその方向性にプラスして力が必要なのだと。そして、そこで言われる力とは決して愛ではない。愛の方向を根拠づけているところの能動的な知性である。そしてもちろん、この知性はもはや神とは何かを問う知性などではなく、自らが神であることを自認したところに立ち上がる思考の力そのものである。おそらく、私たちは情動においても、思考においても、愛のスタンスを取り違えているのだ。いま、私たちに望まれるのは、前と前の結合ではなく、後ろと後ろの結合なのである。
バック・トゥ・バック―生殖されるべきは霊なのだ。
文◎半田広宣 Text by Kohsen Handa 『スターピープル』VOL.46より
2月 4 2019
存在の真理
祖先以前性は歴史の始原の自己発動に関わっている。ハイデガー的にいうならメイヤスーが提示した問題は存在の歴史に関わる問題だと言える。ハイデガーによれば、存在は覆蔵態と非覆蔵態という二つの相を己自身の転回の中で反復している。隠れと隠れなさ。これらの関係性を露わにすることが存在の真理である。
この覆蔵態と非覆蔵態の関係がOCOT情報にいう調整期と覚醒期にダイレクトに対応しているように思われる。要は自然史には作られた自然と作リ出す自然という二通りの時間の様式が含まれているということだ。ハイデガーはその転回の周期を明確にしていないが、OCOT情報はそれを約6500年と言い切っている。
科学的世界観に慣れ親しんでいる私たちにとっては、あまりにも短い周期のように感じるが、ハイデガーが言うように、古代ギリシア人たちに非覆蔵態の意識が残存していたというのが本当であれば、妥当な線なのかもしれない。作られた自然は紀元前約4500年頃にその歴史の始原を発動させた……。
まるで新手の創造論のようにも聞こえるが、現在の科学的宇宙観と真っ向から対立するこのような自然史を、直線的時間に支配された人間の理性はどのようなプロセスを持って受け入れていくのか。ハイデガーはこの「将来」を詩人に託したが、詩人はすでに絶滅危惧種となりつつある。
もはや夕べの国において夜明けを詩作するのは詩人ではないだろう。「天からの火(Feuer vom Himmel)」をこの地上に持ち込み、天と地をその火によって繋ぐのは、奥行き(虚軸)として出現する進化の精神によってである。無限大の無限小への収縮(ツィムツーム)。そのとき一神教にとどめが刺される。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ツィムツーム, ハイデガー, メイヤスー