6月 30 2006
愛の方程式
いきなりうさん臭いタイトルで始まってしまったが、とりあえず左の式を見てほしい。
xをわたし、yをあなたと置く。左辺はわたしから見たあなたという関係を意味する。右辺はわたしとあなたから見たわたしという関係を意味する。かのラカンによれば、この関係が相等しくなるとき対象aに至るという。対象aとはラカンにとっては愛の実体のようなものである。その意味で、この式は関係者の間ではラカンの愛の方程式と呼ばれているそうな。ちあきなおみのx+y=Loveのように単純ではない。大抵の人たちが、こりゃ一体何じゃ、トンデモか?と言いたくなる。
ラカンの研究者たちも、この式についてよく解説を試みているのだが、どうも今ひとつピンとこない。たとえば、S氏なんかはこんな調子だ。
「神がわたしを愛するように、わたしがあなたを愛すること。そこに対象aがある。」
さて、困った。ラカンは一体この式で何を言いたかったのか。ラカンに限らず、あの時代のフランスの知識人たちはナチスの検閲から逃れるために、故意に自分たちの思想を晦渋に表現していたふしがある。暗喩、隠喩、換喩等のレトリックを駆使し、文章の端々に織り交ぜるのだ。それも、わざと文意を読み取りにくくさせるように。ふふ、所詮、ファッショ連中の頭じゃ分かるまい。分かるやつだけが読め、という感じである。だから、ラカンの言葉をその文面をなぞるだけではそうやすやすと理解することはできない。彼が生涯行った思索の足跡の中から、共通するイメージを摘み取って、その一つ一つの座標点を結ぶ形でしか、意味の輪郭は描けないのだ。
さて、ヌースがこの方程式の謎を解けと言われたら、どう解こう。。
ヒントは同じくラカンが口にしていた「愛の奇跡」にある。言うまでもないことだが、これはヒデとロザンナの曲名ではない。この世界で最も驚くべき奇跡とは何か。それは愛される者が愛する者に変容することである。ん〜、どうでもいいけど、ラカンってキザ。。
確かに、こうした変容は恋愛体験において普通に見られることだ。好きだ、好きだと言われているうちに、気がつくと、こっちが告白された相手に夢中になっている、ということが多々ある。このときわたしの心中で一体何が起こっているのか——ラカンはいう。受動が能動に変わること。それこそが奇跡なのだ、と。凡人は、そんなことは奇跡でも何でもない、能動に変わったおかげて、彼・彼女に逃げられてしまったじゃないか〜、くぅ〜。とぐらいしか思わない。そうではない。ラカンはここで何を言わんとしているのか。。ラカンの精神分析の本質はこの受動者から能動者への転換にあるのだ。
受動が能動に変わること。それは人間が人間を作り出した者に変わる、ということを暗示している。つまり、無意識への接近である。無意識のシステムとは、言い換えれば、神のシステムであり、それによって人間の意識は受動的に働かされている。受動的なものがどうやって能動的なものへと変容することができるのか——その奇跡の行い方について語ろうとしているのがラカンの精神分析なのだ。というところで、愛の方程式に戻ってみよう。
左辺のy/x……yを目の前に現れた現象世界とし、xをそれを受け取っているわたしとしてみよう。つまり、この分数を主体世界と客体世界の分割比であると考えてみるのだ。とすると、右辺側のx/x+yは何を意味することになるだろうか?主体と客体を合わせたものが、実は真の主体であり、そのとき主体だったものは客体へと変わる。。そして、その分割比は、前のものに等しい。。。一体、どういうことだ?
一つだけ言えることは、この式は主体を客体へと変えること、つまり、見つめる者を見つめられる者へと変換している式だろうということだ。このとき、真に見つめている者とは、主体と客体を併せ持った世界そのもの、つまり、神そのものとなる。世界はどういう事情からかは知らないが、此岸と彼岸に分かれた。此岸から見た彼岸。それがy/xが意味していることだ。そして右辺のx/x+yは、その逆、すなわち、彼岸から見た此岸を表している。彼岸に「わたし」はすでに渡っている。だからこそ、ここにわたしがいる。。そして、おそらく彼岸へと渡り終えた「わたし」とは「あなた」のことである。なるほど、y/xにおけるyにも「あなた」はいる。しかし、それは、わたしと対立する「あなた」である。しかし、「わたし」を他者として見ている彼岸の「あなた」は対立するものではなく、わたしを含むものである。だから、「あなた」は神なのだ。神は自分を見るために「わたし」と「あなた」を作ったのである。
さて、y/x=x/x+yという愛の方程式。y =1と置いて、この式を解くと、xは黄金比φになる。ラカンが対象aと呼んだものだ。この対象aはラカンが言うところの「消え去った現実界」の中に息づいている。此岸と彼岸はこの対象aによって分断され、かつ、この対象aによって結ばれているのである。。
対象a。おそらく、それは双対性の思考が生み出す自己言及の成長である。見ることを見ることを見ることを………。負の鏡像原理を正の鏡像原理へと反転させること。そこには燃え盛る生命の火が黄金螺旋の風に煽られて燃え立っていることだろう。風に乗ろう。火を起こそう。そうすれば奇跡は起こる。
9月 22 2006
天の橋立
今日は以前ここで言ったことの訂正をしなくちゃならない。それは地球の表面は3次元球面だと言ったこと。これは間違いじゃないけど、どうも正確な表現ではないということが分かってきた。
前にもこのブログで書いたが、見てる人間の眼差しをも加味して考えると、モノ(=モノの認識のカタチ)は4次元球体として存在しているように思える。当然、見てないところにモノなど存在し得ないのだろうから、モノは4次元球体として生息していると言っても過言ではないだろう。だから、その表面は3次元球面になっている。そんな類推で、地球も3次元球面だと表現してしまったわけだ。しかし、たとえ4次元を考慮したとしても、単なる目の前に存在するモノと、僕らが不動の大地として感覚化している地球という球体が存在している空間は互いに次元を全く異にしているような感覚がある。そこで、今日は皆に次のような考え方を提案したい。
身体における前後がもし4次元方向ならば、身体における左右は5次元、上下は6次元というように、単純に類推することはできないだろうか。4次元が身体の前後に存在する(これはほぼ確実ではないかと感じている)という感覚が芽生えてくると、身体にとっての左右からの方向は、前後を前後として観察するノエシス(意識の指向性のようなもの)に感じてくる。つまり、主客未分化な前-後という空間を主客に分離し、理性的な働きを介入させてくる無意識の矢のようなものに感じてくるのだ。このとき「後」を率いているものが自我で、前を率いているものが「無意識の主体」だ。いつも言っている「人間の内面と外面」というやつである。一般に僕らの意識は前に見えるものを客体のように感じているが、それは実は客体ではなく、真の主体だということだ。客体は言語によって作り出される「後」の空間に存在している。
後(自我)の空間が支配する闇の世界の中では、光に満たされた「前」の空間は点の中に畳み込まれる。この畳み込まれた空間を物理学は時空の各点に貼付けられた「内部空間」と呼んでいる。内部空間とは素粒子の世界とされている。つまり、真の主体の場は微粒子世界として微分化された世界の中に閉じ込められていることだ。おっと、今日はミクロの話をするんじゃなかった。。前後=4次元、左右=5次元。この話をしたいのだった。これを通じて、マクロの天体世界へと展開する高次元空間の構造へと想像を巡らしたいのだった。。。
とりあえず、とりあえずだ。安直に左右=5次元と考えよう。すると、大地は5次元の膜で包まれているというイメージが湧いてくる。なぜか地球は丸い。身体が大地にしかと立ち(この「立つ」身体というのもとても重要な意味があるのだが)、そこで認識されている前後方向は、地球規模で見れば円環となって閉じているはずだ。左右もおそらく同じだ。それも円環状に閉じていることだろう。とすれば、地球表面は5次元平面(地上を平面と思っている認識)が球面化したものと考えられないこともない。こうした平面認識から球面認識への移行は、言うまでもなく近代のコペルニクス的転換で起こったことだ。おそらく、近代は上下方向からの6次元目のノエシスが介入してくることによってもたらされたのだ。ここでいう上下方向とはもちろん、地球から広がる宇宙空間の方向性ということになる。ということは、地球とは6次元空間に浮かぶ6次元球体なのだろうか?
と、無責任な問いを投げかけたところで、話の矛先を変えることにしよう。
シュタイナーは前後方向を感情軸と呼んだ。それはたぶん正解である。前後とは自己と他者とが想像的に交わる軸であり、そこにはおそらく想像界が存在している。想像界は母子関係によってその基盤が作られ、人間にとっては感情の在り方と大きく関係する無意識の場である。次に左右方向を思考軸と呼んだ。おそらくそれも正解だろう。左右とは、想像的同一化にまどろむ幼児の無意識活動を非情にも切断する去勢の手術のメスである。お父さん、なんで僕をお母さんから引き離すの?やだよ。僕はここが気持ちがいいのに。。。左右からの視線の介入によって、僕らは前後方向に膨らみの感覚を生み出し、モノや世界に三次元的な奥行きを作り出す。そして、それは同時に言葉の介入でもある。ラカンはこうした働きの場を象徴界と呼んだ。そんなにいつまでも甘えてるんじゃない。社会は厳しいぞ。これからはお父さんがボクを鍛え上げるからね。いひひひひ。では、上下とは何か——シュタイナーはそれを意思軸と呼んだ。たぶんこれも正解だろう。
6次元上空(宇宙空間)から見ると、人間の前後と左右は一つの十字架に見えていることだろう。地球上に植樹された無数の十字状の苗床。6次元からの視線はこの十字架の回転を促し、それぞれの苗をそれぞれの思いの中で成長させていく。つまり、想像界と象徴界の等化を計ろうと人間の創造力のスイッチを入れるのだ。言葉からイメージへ、イメージから言葉へ。男的なものと女的なものの性愛関係が蠢くところである。この反復が人間の個体性を確固なものにしていく。そして、おそらくこの軸はオルフェウスの竪琴の弦と呼んでいいものだ。その弦の一本一本はおそらく夜空を満たす星々の一つ一つと繋がっている。
何度もいう。人間は星である。銀河とは地球上で蠢く不可視的なものの可視的表れである。銀河の魚、人間。。。いずれそのことが明らかにされる日がやってくる。。。。。はずなんだが、最近、仕事が忙しくてその作業を怠り気味なんだよなぁ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: シュタイナー, ラカン, 内面と外面, 素粒子