3月 5 2019
人間の調整質(思形と感性)の素描
OCOT情報が「人間の思形と感性」と呼ぶものの素描をツイッターでつぶやきました。下に紹介しておきます。下のケイブコンパスを見ながら雰囲気で感じ取ってください。
空間に整然とした構造が潜んでいるのが、徐々に皆さんにも分かってくるのではないかと思います。
ヌーソロジーに慣れ親しんでいる人はじっくりと構造を確認しながら、何度もじっくりと読んでみるといいと思います。
思形側の時間感覚。
過去は左。右は未来。
過去から未来に時間は流れていく。
感性側からの時間感覚。
未来から過去に時間は流れていく。
右から左への時間感覚。
横書きの文字と縦書きの文字を読むときの感覚の違い?
空間的には、
思形は物体側からの空間の広がりを感覚化させる。
感性は身体側からの空間の広がりを感覚化させる。
持続に関与できるのは感性側のみ。
思形と感性は反復している(第二の反復/ドゥルーズ)。
現在が表象化されてくるのは、思形が働きを持った後。
感性のみでは、瞬間的な現在は意識化できない。
思形における対象とは言葉による概念。
感性における対象とは感性の精神への関与。
物質とはあくまでも概念にすぎず、思形が感性を従属させたところに生まれる。
言葉の本質は精神の対化の等化。
言葉は自他の精神を等化した力が、結果として現れたものだということ。
人間の意識では付帯質として働く。
思形は付帯質に関与し、言葉を働きに変えて送り出す。
思形は客観。
感性は主観。
元止揚(物自体)をめぐる調整。
まずは、物から広がる空間と自分の身体から広がる空間というものを区別できる視力を持とう。対象から広がる空間は自分と物との関係しか作り出すことができない。一方、身体から広がる空間は精神(=持続)に関与することができているので、対化(自他の倫理的関係)に方向を持っている。
反転が理解できるのは感性側から。思形側から理解しようとしても反転はまったくつかめない。思形は付帯質を後ろに持つために、思考主体が肉体に固着化し、世界を頑なに対象化するクセがついている。感性は付帯質を前に持っているので、反転認識への抵抗が少ない。
思形的観測は対象の位置と時刻を持つ。しかし感性的観測の方は位置も時刻も不明瞭なものだ。どういうことか―たとえば花見に行く。見えているのは散りゆく花びらだが、そこには花びらの落下のイマージュのみならず、ときとして自分の人生のイマージュまでもが同時に想起され、風景と自分は一体化する。
これは感性が精神に関与できるからこそ起こっていることだ。知覚は常に記憶を伴う。知覚自体に記憶の層が取り付いているのだ。こうした高次の層をセッティングしているのが元止揚だと考えるといい。そして、それは奥行きに潜む持続空間としての素粒子の働きによるものと考えてみよう。
時間と空間でしか物を見ることができない思形は、そのような存在を「位置の重なり合いの可能性」や「非局所性」といった言葉でしか表現することができない。内なる精神が外に現れていることなど夢想だにしないがゆえに。
ポイントは対象に記してある3次元座標の向きです。向き付けが逆になっているところに注意。対象空間の方は幅化した奥行きが自分の方に向かってきているのに対して、感性空間の方は自分から出て行っています。実空間自体が反転して、二つの方向に分かれているのです。
そして、最も重要なポイントはこうした空間構造が自己と他者の間では真逆に構成されているということです。自他の空間の間には見えないねじれの構造がひしめいています。またそれが自他の意識構造にもなっているわけですが……。こうしたことを全く無視しているのが、今のわたしたちの世界認識です。
是正しましょう、空間を。そうすれば、素粒子から人間の肉体に至るまで、宇宙の全構成物に自己-他者(高次)の調和関係が根を下ろしていることがはっきりと分かってきます。今の世界観は何度も言うようですが、空間を見ていないために、それがまったく見えていないのです。
3月 7 2019
思形空間と感性空間の相互反転性について―存在の思考のために
今回は、以前紹介した思形空間と感性空間の違いについて、実際にリンゴを見ている状態で説明しておきますね。
目の前にリンゴがあります。その周りには空間が広がっています。普通、わたしたちはこの空間の広がりを図1のようなイメージで捉えているのではないかと思います。
このとき空間の広がりは自分の方に向かってきているのが分かると思います。この方向性で表現される空間が思形空間です。自分の顔面を意識化させる空間の方向が「人間の内面」ですから、思形空間は「人間の内面」に存在していることになります。次元観察子でいうと、この空間がΨ4に相当しています。
一方、感性空間の方は私がリンゴを志向している方の空間です。その空間の様子を図で表すと図2のようになります。Z軸の方向が反転しているのが分かります。こちらはΨ*4です。
わたしたちは通常、空間を単に「3次元」と呼んでいますが、思形空間の3次元と感性空間の3次元は同じ3次元空間ではありません。互いに反転関係にあるんですね。
実際に思形空間の3次元と感性空間の3次元を重ねられるかどうか、座標軸を回して、試してみるといいでしょう。試すとすぐ分かりますが、ちょうど右手と左手を重ね合わすことができないように、この二つの空間を方向付けている3本の矢印は3次元空間の中では決して重ね合わせることができません。
この重ね合わせの不可能性は「物がある空間」と「その物をわたしが見ている空間」とが全く違った空間であることを意味しています。お互いの間には反転の捩れがあるのです。
「物を見る」ということが起こるためには、こうした3次元の捩れが必要になるということです。まずは、そのことを意識にしっかりと上げましょう。
さて、ヌーソロジーでは ―感性空間は「人間の外面」に方向を持ってる― という言い方をします。「人間の外面」とは、いつも、言っているように、真性の奥行き、つまり、持続空間の領域のことです。「図では潜在化した虚軸(青の破線)」として記しています。
感性空間はまだ幅化した奥行きですが、そこから幅を取り去ったものが純粋持続が活動する元止揚空間だと考えるといいと思います。
ヌーソロジーがいつも「考えるな、感じろ」ではなくて、「感じろ。そして、考えろ」と言うのは、感性空間さえをも超えて、この純粋持続の空間の中に入るための思考というものがあるからです。
感じることを可能にさせているもっと深い空間が、意識には存在しています。持続空間とはそういう場所だと思ってください。そして、この場所は対象から逃れた純粋な思考によって発見していくしかありません。
ここから始まるのは、ハイデガー風に言うなら「存在の思考」というものです。この存在の思考こそが、ヌーソロジーがヌース(能動知性)と呼んでいるものの働きだと考えていただければと思います。
記事の補足。
思形空間=「あるもの」の空間
感性空間=「いるもの」の空間
感性空間の下に眠る元止揚空間=「なるもの」の空間
という整理でいいと思います。
自分が世界に「いる」感覚は、
無意識の中に沈む「なる」の世界が与えてくれている。
「ある」の世界の方に意識が飲まれていくと、
「いる」感覚は希薄化し、
「いること」の意味を見失ってしまう。
「いるもの」は「あるもの」のために生きているのではなく、
「なる」ために生きている。
今一度、下図を見ながら、この文章の意味について考えていただければと思います。
「いるもの」から「なるもの」を目覚めさせ、「あるもの」の世界に出ることによって、「あるもの」はようやく自分の本当の姿を見せるようになるということ。
ヌーソロジーが目指している世界は、そのような「ある」「いる」「なる」が一つの輪となって生きる調和の世界です。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ハイデガー