11月 16 2021
ハイデガー哲学はヌーソロジーから見るとどのように見えるか
物を本来的な在り方へと戻すこと。
物質は物の非本来的な在り方でしかない。
物が本来的在り方へと戻るためには、
時間が本来的在り方へと戻らなければならず、
物と時間が本来的在り方へと戻ることによって、
初めて自己も本来的な在り方に戻る。
ハイデガー哲学の骨子とはそういうもの。
ハイデガー哲学はすごく難解とされているが、ヌーソロジーから見ると、これは以前紹介した4次元世界におけるスリングショット構造のことを語っているように見える(下図参照)。
つまり、時空から一度、虚時間宇宙へと反転し、そこから再度、時空へと反転して戻ってくる眼差しを作るということだ。この一連のプロセスによって、物も自己も本来的な在り方を取り戻す。
ここで虚時間宇宙と言ってるのは複素2次元空間の一般化のような意味だと考えていい。実際には素粒子の内部世界のことである。素粒子とは物の始原のことでもあるわけだから、つまるところ、ハイデガーは意識の発生と物の発生を同時と見なす位置(根源)へと、私たちが生きる場所を戻そうとしているのである。
この位置に出てこそ、私たちは初めて物についての正しい問い立てができ、そこでの主客一致の思考が物の生成(フィシス)へと結びついていくわけだ。ここにおいて空間が開き、本当の時間が時熟として現れる。早く、この位置に出よう。ヌース的にはここが覚醒期の世界だからね。
もっとも、ハイデガーの場合はこのスリングショットの場所で混乱を起こしていて、非本来的自己の次元で生み出された歴史性や民族性といった残滓を引きずったままで、本来的自己へと戻ろうとしてしまった。だから、後期は話がうまくまとめられなくなって、ヘルダーリン的世界へと赴かざるを得なくなった。
ドゥルーズなんかもそこを批判するわけだ。もっとも、ドゥルーズの場合は、この本来的自己は「非人称の主体」という自己ならざる自己へと生まれ変わっていて、そこに立ち現れたノマド的生成空間の中を別様の他者とともに輪舞を踊りながら疾走していく。
ヌーソロジーもこの世界に近い。ただ、ドゥルーズのような荒っぽいダンスではない(笑)
12月 8 2021
時空の脱自態の地平へ―時空のスイングバイが始まっている
久々にKAZEさんの記事より。
ここに書かれてあることのすべてに同意します。
このKAZEさんの記事を取り上げたのには理由があって、たまたま下のようなツイートをTwitterに連投していたから。
以下、Twitterより―
本来的時間への時熟が起こると、世界はうちへと向けて自らのうちに開く。ハイデガーはこうした”開き”のことを「脱自態の地平」と呼ぶが、具体的にそれがどのような世界なのかについては語っていない。ヌーソロジーからすれば、それは人間が自然の始原(素粒子)に位置する霊的自然のことに他ならない。
OCOT情報では、この「世界はうちへと向けて自らのうちに開く」ことを「対化の方向性が変わる」と表現する。例の「時間に負の方向性が生まれる」というお馴染みの表現も、このハイデガーのいう「脱自態の地平」に対応していると考えていいように思う。
ヌーソロジーの空間構造のみならず、哲学や物理学の知識がないと、ここは何をどうイメージしていいのかサッパリなところかもしれない。大雑把に言えば、”持続を挟んで時間の方向性がひっくり返される”のだとイメージすればいい。
このひっくり返りによって、自然界は持続(永遠)から現出してきているものに見え出す。そして、その時の持続とは自己自身のことでもある。一方、今の私たちは現出を知覚してそれを持続の中に記憶している。つまり、時間の負の方向では、継起する瞬間性と持続の関係が逆になっているのだ。
ベルクソンの持続の存在論とハイデガーの時熟の存在論のを統合させて思考したのドゥルーズだと思うが、ドゥルーズの場合、そこに登場する新たな主体のビジョンがあまりに超絶すぎるという問題がある(笑)。この主体イメージはもっと思考可能なものとして描かれる必要がある。
生成空間という新しい地平の上に本来的自己と非本来的自己のハイブリッドとして立つ「ヒト」において、時間はどのように見え、また物質はどう見えるのか。そのイマージュを確立させていくことが、OCOT情報のいう次元の顕在化という概念とつながっている。
位置の等換の年とされる今年(笑)、朧げにも浮上しているビジョンは時間と持続の循環が確かに意識内に存在しているという感覚だ。ベルクソンの場合はこの循環を例の逆円錐モデルで描いているが、あれだと、反復のイメージは持てても循環のイメージはひ弱い。つまり、反復するその理由が見えない。
通常の存在感覚で言うなら、瞬間性の継起を迎え入れるところに客観認識が生じ、それが持続へと戻されるときに記憶、つまり主観性が生じ、その主観を支える持続が持続の向こう側へと回り込むことによって、瞬間性の継起を非本来的自己の前に立ち上げるといった循環イメージだ。
このような時間イメージを強固なものとするためには、主体は自ら自身の位置を持続におかなければならない。かつ、その持続からいかにして瞬間性を立ち上げることが可能になるのか、そのイマージュを明確なものとしないといけない。
そのシステムを支えているイデアが例の3+1→2×2→3+1という、時空のスイングバイを行う、複素二成分スピノルのテンソル積に表現されていると考えるのがヌーソロジーなのである。このスイングバイはハイデガーの言葉を借りるなら、時空自体の脱自態を表現する式と言えるのではないかと思う。
この時空のスイングバイの達成によって、時空と原子核は見分けがつかないものとなる。つまり、ミクロがマクロを包むという逆モナド化の世界がそこに開き、時空自体が襞のように重なりを何重にも持ち、物質の内部のあの多様性の世界が、そのまま物質の外部とイコールになるような多様性の時空が花開いてくるわけだ。ブラボー!!
それによって、ここではドゥルーズの言うように、差異は肯定的なものとして現れ、新たな差異の生産がそのまま、二元性の統合という運動に置き換わりながら、時空をよりふくよかなものへとしていく。ヌーソロジーにおいてはその運動は等化(精神)のセリー(連続的系列)として現れ、これが”ヌース(能動的知性の流動性)”の意味するところとなる。
結論から言うなら、このような世界の裏返しは可能である。と言うか、その裏返しが反-実現化しているからこそ、この今の私たちの世界の存在があると考えないといけない。今、あちこちで現れている表の世界の行き詰まりは、そろそろ裏へと回りんしゃいという、存在からのサインだと思うのだが。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ドゥルーズ, ハイデガー, ベルクソン, 素粒子