11月 17 2005
プラトン・コーディネーツ
ここ1週間ほど、久々にゆっくりとヌースの思考空間に入ることができている。わたしにとってはまさに至福のときだ。現在、懸案となっているテーマは、次回作の中心ネタともいえる「プラトン・コーディネーツ(Plato-coordinates)」の作成である。プラトン・コーディネーツとは、プラトン立体を無意識構造のカタチの形成秩序と見たときの呼称で、完成のあかつきには、ヌース理論に登場する次元観察子という高次の位置概念が、各プラトン立体の頂点や面や線にビシバシと付与されていくことになる。次回作では、このハイパーな意識の位置座標の導入によって、ケイブコンパスで指し示した高次元の位置構成の秩序を、一つの観念の結晶体構造として出現させるもくろみなのだ。うまく行けばかなり強烈な思考ドラッグとなることは間違いない(だは。ヌースは人々を空間ラリルレロ症状に陥れ、3次元的ロレツを回せなくしてしまうツールなのだ)。
プラトン立体に関するヌース的解釈については「光の箱船」でも少し書いたが、まだまだ満足のいくものにはなっていない。虚数空間に対してどういう解釈を施し、それをどう取り込むかがまだ曖昧なのだ。現時点では、「奥行き方向に虚軸の本質がある」ということだけは分かってきたが、それをプラトンコーディネーツにどう組み込むかはまだ明確ではない。しかし、解決の兆しはだいぶ見えてきている。数学的なウラを取るのはのはかなり難しそうだが、すくなくともそのストーリーの運びはほぼできあがってきた。今日も、砂子氏に電話で連絡を取り、その概要が物理学的に間違っていないかどうかいろいろとチェックをお願いした。
ポイントとなるのは奥行き方向を虚軸とおいた時に、その虚軸が示す具体的な意味とは何かをどのくらい具体的に示せるかということである。奥行きとはわたしたちが世界に触れることのできる方向性だ。そこは光に満ちたエーテル的空間でもある。観測者と世界とをつなぐ線に「虚」を見るということは、この空間にはモノとモノとをつなぐ実空間と観測者とモノ、もしくは観測者と観測者をつなぐ虚空間とが重畳して混在していることになる。
虚軸がユークリッド空間上の線と違うところは、虚軸上(視野空間上)においては、3次元空間が丸ごと畳み込まれているということだ。目の前でボールをグルグルと回してみるといい。視野空間という場所は、普通にはユークリッド的には視点と呼ばれるにも関わらず、そのボールのグルグルをすべてが受容できる場所となっている。つまり、このことは、幾何学的に言えば、モノと観測者を結ぶ線分には三次元の回転群(SO^3)がすべて畳み込まれているということの証なのである。こうした特殊な線分を虚数軸と見立てると、実は、難解な高次元のトポロジーの話が面白いほどビビッドなイメージとしてわき上がってくる。
射影幾何学的にはSO(3)は3次元射影空間RP^3と同相とされる。RP^3は3次元ユークリッド空間R^3に無限遠平面を加えたものである。視野空間上でモノがグルグルと回転しているときに、その背景に見えているものは何か。それが大空や星空であれば、無限遠平面そのものと言っていい。この宇宙が閉じた3次元球面状のカタチをしているならば、無限遠平面は前に見れば無限の彼方にあるが、後ろに見れば、それはわたしのすぐ後ろの後頭部にへばりついている。いや、もっと言おう。わたしを例の「首無し死体」と見れば、それは今、ここにある視野空間と同じものと言っていい。内面(前方)に見える無限遠を外面側(後方)にグデンと裏返すこと——。こうして、ヌースでは観測者の位置は3次元空間においては無限遠=ココとしか言いようの無い場所として示される。この宇宙の果てはかつてアインシュタインがいったようにわたしの後頭部とつながっているのだが、それは「此処」と同じ場所だということである。さしずめ、マグリットならば、こうした様子を、ドタマに風穴を開けられて宇宙を覗いている初老の紳士の後ろ姿として描くだろう。こうした風景が生き生きとイメージされてくれば虚空間の訪れもそう遠くはない。
ブログなのでこれ以上の深入りは避けるが、いずれにしろ、「観察」という要素を「虚」の幾何学として取り込むと、この空間は様々な複素次元の回転群の多重構造によって埋め尽くされていることが見えてくる。それこそ、見えない天使たちが縦横無尽にこの空間の中を飛び回っている情景が見えてくるわけだ。こうした天使たちの交易ルートが先に挙げた「プラトン・コーディネーツ」と考えてもらえばよい(これは太陽系とも関係あるよ〜ん)。
まもなく、真の等価交換が執り行われているこの天使たちの交易ルートが人間の意識の前にも姿を表してくることになるだろう。それは、地上の天への上昇と呼んでもいいし、天上の地への降下と呼んでもいい。いずれにしろ、かつて誰も見たこともない永遠の都市空間へのリフォームが開始されるはずだ。人類初の劇的ビフォーアフター。わぁおぅ、もとのオウチじゃないみたい!!
1月 17 2006
無限遠の劇場
ヌース理論が展開する世界観の第一歩は「自分が無限遠点にいる」というものである。以前、レクチャーの時に自分が無限遠点にいるのであれば、世界はすべて0の大きさになって消えてしまうじゃないか、という素朴な質問を受けたことがあった。多くの人が誤解しがちだが、無限遠点とは何もムチャクチャ遠いところにある場所のことではない。そういった遠ざかりの想像は永遠に進んでも有限の遠さであって無限遠に到達することとは何の関係もない。無限遠とは世界に直立することのできる位置のことだ。
思えば、もう20年ほど前のことだ。わたしを襲った突然の疑問、それは「わたしは動かずに、なぜモノの全表面を見ることができるのか?」という疑問だった。目の前で対象をグルグルといろいろな方向に回転させる。わたしの位置をもし点として考えてよいのならば、この回転によって見えている対象の表面は内部/外部を反転させて、わたしを中心点とする球体を作っているのではないか。一体、その反転した空間とはどこにあるのか——。今考えればほんとうに拙い疑問だが、この素朴な疑問がヌース理論の出発点でもあった。
今はおかげさまでこの疑問にはっきりと答えられる。無限遠点とは対象の背景空間そのものである。そして、それは別名、視野空間と呼ばれるものである。そして、それを中心とした回転とは他者が見ている回転である——と。主体は他者の視座に身を明け渡し、この視野空間に不在の斜線を引く。鏡像交換という人間には避けて通ることのできない掟によって、人間は誰もが目を潰されるのである。ラカンのいう空虚な穴。それは僕の目、そして君の目のことだ。
対象を「図」とすれば無限遠点は「地」だ。だが、この「地」は、なぜか今まで誰にも省みられずにいた。表象を追いかけることに精一杯で、その表象を浮かび上がらせている背後の空としての「脱-表象」を表象として見る者は誰もいなかったのだ。存在者から存在への飛躍。そこにも間をつなぐこの女の場は省みられることはなかった。見捨てられた女、もしくは、現れることのない花嫁。
奥行きを持って彼の女を見れば、それははるか宇宙の彼方に想像されようが、あるがままにそれを見れば、それは今、此処そのものにある薄膜である。無限遠とは、表裏が一体となった、あのデュシャンが語ったアンフラマンスとして、今ここにある。
脱-表象の思考——それは視野空間の中に映る諸々の「もの」たちではなく、視野空間そのものを対象とすることによって生まれてくる天使的思考だ。そう、それは無限遠点を対象として見ることによって初めて可能となる。「わたし=人間」にまつわるすべてのドラマはこの神秘のヴェール上で起こってきたわけだが、そろそろこの悲喜こもごもに賑わう仮面舞踏会も幕引きの時間とあいなるだろう。まずは、僕が後ろへ一歩後退すること。そして、次に君が一歩退くこと。そして、今度は二人一緒に二歩目の撤退を。それだけで世界はてんやわんやの大騒ぎになるはずだ。そう、だからステップを踏もう。ワルツのように軽い足取りで。そう、あのダンカンの踊りのように。。
やがて君と僕はこの撤退の身振りによって、君と僕が一体誰であったのかということを知ることになる。視野空間の中の世界は相も変わらず口パクの喧噪で溢れているが、何も心配することはない。まもなく襞のカーテンは開かれ、とびっきりの演目が始まることになるのだから。
selention〜,selention〜. 皆さん、ご静粛に。当劇場ではもう口パクは必要ありません。場内では目で話し、目で聴くこと。それが慣例です。さぁ、この類い稀なる新しい舞踏をご覧あれ。selention〜,selention〜.
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: ラカン, 無限遠