10月 14 2016
「付帯質の等化」の時代
最近はシリウス言語(OCOTが使用する語彙)を使用することを極力控えている。というのも、それが半田広宣のセンスではないというのが一番の理由なのだが(笑)、同時にそうした言葉を撒き散らす弊害というものも熟知しているからだ。概念を孕まない言葉は他者に対して暴力的に振る舞う。まぁ、これは何もシリウス言語に限ったことではないが。
しかし、一方でシリウス言語の長所というものもある。それは全く違った思考空間を開かせる力を持っているということだ。何一つ手垢に染まっていない純白の言葉。宗教でも科学でも哲学でもオカルトでもない、何か得体の知れない言葉。たまにそれを多用して話をしてみるのもいいだろう。
OCOT情報では物質のことを「付帯質」と呼ぶ。これは「付帯する力」といったような意味だ。何に? もちろん精神(霊)に、である。物質とは精神に取り憑いた「つきもの」だということだ。では、なぜ、そのようなものが付帯してくるのか―ここには極めてシンプルな理屈がある。
それは精神が「対(つい)」として存在しているものだからだ。精神は数学でいうべクトルのように力と方向を持っている。この方向が「対」、つまり、真逆になって活動しているのだ。真逆なわけだから、二つの精神が一体化すると方向が見えなくなる。つまり、方向がプラスマイナスゼロで相殺されてしまうわけだ。
この相殺の場に生まれてくるのが付帯質だと考えるといい。わたしたちが経験している時間、空間、物質はその意味ですべて精神の実体を欠いていると言っていい。
科学はもちろんのことだが、宗教、哲学、オカルティズムにもまだこの「精神の対化」という概念が明確に存在していない。それは思考者たちが人間について考えるとき、人間一般という同一性に依拠して考えているからだ。要するに「精神の対化」とは僕らが自己と他者と呼んでいる存在の起源において活動しているものだと考えるといい。
この精神と付帯質の関係が空間に出現してきたものが、実は奥行きと幅だと考えるといい。奥行きは精神、幅は付帯質。確かに精神がもう一つの精神を見ようとするとき、それが幅になって出現していることが分かる。他者の奥行きを自己から見ようとするとき、それは幅にしか見えない。
ここは冷静に考えてみるところだ。わたしたちは互いにこの幅を交換しあって世界を見ている。つまり、互いの付帯質を共有し合って世界をイメージしているのだ。この状態をシリウス言語では「付帯質の対化」、もしくは「中和の対化」と呼ぶ。要は外界の状態だ。精神がどこにもない。いつも言っているように、奥行きが幅の下に沈んで意識化されていない。別の言い方をするなら、精神がどこにも含まれていない。精神は付帯質に覆われ、その下で眠れる無意識として、得体の知れないものとして蠢き続けている。
ここまでの話だけでも、現行の科学的世界観というものがいかにハリボテの世界かが分かるだろう。同時に、この奥行きの秘儀を言い当てていない宗教も空虚な抵抗であるということが分かる。奥行きはそこへの感応力を持たされた一部のビジョニストか、鋭利な直観を持つ一部の哲学者たちのみが嗅ぎ取るだけで、いまだに隠蔽されたままだ。
付帯質が「対化」として存在する限り、そこには必ず精神が芽生える土壌がある。OCOT情報によれば「精神」とは「対化を等化する力」として定義されている。だから、最初に付帯質から立ち上がる精神の働きのことを「付帯質の等化」という。付帯質の等化とは自己が自らの精神を立ち上げることと思っていい。これは「意識が時空から出る」ということの意味だ。付帯質の等化が始まることによって、意識の対象が時空内の物質ではなくなってくる。それによって、意識は付帯質の外面から内面へと移動を開始する。
付帯質の外面とは物質の外部世界のことと考えるといい。言い換えれば表象の世界のことだ。一方の付帯質の内面とは物質の内部世界のことである。これが収縮の世界に当たる。モナドへの接続である。ヌーソロジーは現在、この付帯質の内面へと意識の活動場を遷移させていくことを目的として作業を行っている。
OCOT情報によれば、付帯質の内面の先には、精神の内面や精神の外面という広大な霊的空間が広がっている。付帯質の内面が見えてくれば、それらがどういう世界かも徐々に分かってくるのではないかと思う。それははっきり言って誰も想像だにしなかったような空間だ。そういった新しい空間が開きかけている。ポスト2013とはそういう時代なのだ。
今日は致し方なくシリウス言語というものを多用したがご容赦願いたい。聞きなれない言葉が頻出したかもしれないが、これらは精神空間を幾何学的認識として切り開いていくためにはどうしても必要な言葉になっている。精神空間はカオスではない。驚くほどシンプルな秩序で成り立っている。僕らにはまだ概念がないだけなのだ。
人間は歴史の中でこの未到来の概念についていろいろなことを語ってきた。それを明確につかめないことが事態をさらに悪化させ、今やその入り口はその合致しなかった鍵の山で埋まってしまって見えなくなってしまっている。オカルトの言葉、宗教の言葉、哲学の言葉、科学の言葉etc。
まもなくそれらは一切の装飾、一切のノイズを捨て、一つの言葉、一つの知性となって蘇ってくるのではないかと思う。付帯質の等化は始まっている。
10月 31 2016
一つの地球から二つの地球へ
奥行きにどれだけ自覚的になれるか―これからの時代はこの「幅から奥行きへ」の反転感覚を養っていくことがすべて、と言っても過言じゃないね。そりゃあ、政治や経済のシステムの反転もいろんなところで謳われるだろうけど、それらをすべて底支えしていくのは個々における奥行きの目覚め、隠されていた虚軸の復活だってこと。
奥行きの自覚が生まれてくると、幅の世界の中の自分は「かつての自分」のように感じてくるんだよね。奥行きの自分と幅の世界の中の自分というように、自分の中の双子感覚が生まれてくるわけだ。これが”自覚”の構造と言っていいと思うよ。「自己が自己において自己を見る」ってやつ。それが空間感覚としてはっきり見えてくるってこと。
この時点で空間認識は複素化する。つまり、虚軸の自分と実軸の自分を持つってこと。ヌーソロジーが人間の外面と内面と呼んでいる概念がコレ。そして、このように空間認識が複素化した時点で僕らはもう世界を物質的対象としては見なくなる。というのも、物質的対象というのは3次元世界に出現しているものだからね。世界は自分自身として見えてくるんだ。それが素粒子世界への着床の意味だよ。つまり、奥行きが虚軸だと分かった時点で宇宙の実体にダイレクトにランディングするってこと。
そして、そこでは、かつて他者だった者も双子になっているだろうから、二組の双子が生きる世界というものに対する視界というのが開いてくる。それが複素2次元空間というやつだね。
実体のない円の中で堂々めぐりをしていた意識はようやくそこで存在の中心である球(精神)を見出し、生命の樹の根元に立つことができるようになる。
自分の中に見える新しい自分とかつての自分。そして、相手の中に想像できる新しい相手とかつての相手。それら四つのものが見えて、初めて人は他者が何者であるかが分かってくるんだ。そして、そこに本当の”出会い”というものが起こる。
この出会いによって今度は僕ら自身のカムナ(定質総体)とアマナ(性質総体)に向けての成長が始まる。もちろん、ともに双子。この成長はカムナが正20面体になり、アマナが正12面体になるところまで続いていく。そして、最後にそれらは合体し、正20-12相貫体と菱形30面体というカタチを作り、一つの殻のようになって、それまで二つあった地球を始まりの一つの地球へと戻す。
こういう物語が繰り返されているんだよね。運がいいのか悪いのかよくわからないけど、この物語の終わりが始まりへと向かおうとする時期に僕らは生まれてきたってことなんだろうね。もうすでに奥行きが目覚めてきているから―。
途中で思わず、「あのねぇ」と言いそうになったわい(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 0 • Tags: 奥行き, 複素2次元空間