12月 3 2006
消えた「前」を探せ!!
4次元の相対する方向性について続けよう。
3次元から見ると2次元のオモテとウラが認識できるように、4次元世界においては3次元空間のオモテとウラが認識できる。ヌース理論のいう人間の外面と内面という概念はこの4次元方向から見た3次元のオモテとウラのことを意味していると考えてもらいたい。
3次元世界のオモテとウラとは他でもない。それは君が認識している3次元と僕が認識している3次元だ。
2次元世界のオモテとウラが3次元の軸の方向によって定まるように、3次元空間のオモテとウラも4次元方向の軸の方向によって定まる。
前回書いたモノの手前に主体の位置を見るか、モノの背景側に主体の位置を見るかという位置設定はこの4次元の方向性の違いのことを語っている。
モノの手前側に主体位置があると思っているのが内面認識で、モノの背景側に主体位置があると思っているのが外面認識である。しかし、通常、僕らはモノの背景側に主体位置があるなんてことは露ほどにも思っていないので、外面認識は完全に無意識化していると言っていい。誠に皮肉な事だが実際に見えている世界が無意識の中に漂っているのだ。
じゃあ僕らが「前」に見ているものとは何か?ということなのだが、図式的に答えるならば「自分の後という概念を前に回転させているだけのもの」ということになる。なぜそんなまどろっこしい言い方をしなければならないのか——それは主体は常に他者の眼差しにあぶり出されることによってしか、自分を把握できないからである。そして、その認識の中では自分は物質としての肉体に焦点化させられる。
周囲にグルリと取り込んだ他者の目を想像しよう。こうした状況では主体は否応無しに見つめられるていることを意識する。「見つめられている」ことを意識するということ、これは言い換えれば他者の視野に映る自分の姿を想像しているということだ。そのときの自分という「図」を映し出している「地」とは後方空間のことでもあることが分かる。四方八方どちらを向こうが、そこにいるそれぞれの他者の眼差しの中に、後方空間を地とするわたしの顔という図が浮かび上がってくる。このときの「後方空間」の集合が、わたしの周囲に広がる空間という認識を作り出す。こうした認識の中では、主体は空間状の1点に固定され、その周囲に決して見ることのできない3次元の鏡映空間が広がるという筋書きだ。これが仄暗き「水の鏡」の内部世界である。この鏡像空間はフロイト風に言えば、ナルシス的自我の発生点とも言っていい場所になる。ラカンの言葉で言えば文字通り鏡像段階を経て形成されていく想像的自我の基盤の位置となる場所である。
わたしを取り囲む空間の広がり。。これが時空である。時空を群で表すと、
S0(3)×R1(+)=R(1,3)
とされる。SO(3)は(x,,y,z)の三軸回転、R^1(+)は「後」という特定の方向を意味すると思ってもらえばいい。R(1,3)は4次元時空を意味する表記だ。つまり、後方向が回転して寄り集まったものが時空という考え方は物理学的な定式を外してはいない。
そこで皆に聞きたい。前はどこにいったんだ?
2月 16 2007
5次元から見たボクとママ
思形=ψ9を存在のパパとするとならば、存在のママ=ψ10とは感性のことである。
ある理由でパパのことから話してしまったが、実際には、人間の意識の目覚めはママとの共同作業から始まる。ハパの世界が人間の外面*のミラーリング(他者が見ている世界をコピーして自分がみている世界と合体させること)に始まったのに対して、ママの世界は人間の内面*のミラーリングで始まる。人間の内面*のミラーリングというのは、他者が見ている世界ではなく、見ている他者を自分がコピーするということである。つまり、他者の眼差しとそこに見えているであろうモノの関係を、自分の眼差しと実際に見えているモノの関係に重ね合わせて、自分にも眼差しがあるということをイメージしていくということだ。だから、ママの世界はパパの世界と違っていつも眼差しに溢れていると言っていい。ママが僕を見つめる。ママの眼差しの中には当然、僕の眼差しが映っていることだろう。そうやって、主体は自分がママのような眼差しを持った存在であるということをイメージし始める。これがあのラカンのいう鏡像段階仮説だ。
幼児は鏡の中に自分の身体のまとまりを見出し、躍り上がって手をたたいて大喜びする(ラカン)——まぁ、こうした言い方はかなりの誇張だとは思うが、いずれにしろ、無意識の主体はママの眼差しの中にママと似たような存在を見出し、それがボクであることに気づき始めるという考え方に、僕自身は疑いを挟めない。この状況をケイブコンパスで示すとおおよそ次のような感じになる。
ステージ1………主体はψ2(ママの眼差しとそのモノの見えの関係)を使って、ψ*2(ボクの眼差しとモノの見えの関係)を見つける。
ステージ2………主体はψ4(ママの眼差しとそのモノ一個全体の見えの関係)を使って、ψ*4(ボクの眼差しとモノの一個全体の見えの関係)を見つける。
ステージ3………ψ6(ママのボクの身体に対する眼差し=他我)を使って、ψ*6(ボクのママの身体に対する眼差し=自我)を見つける。
ステージ4………これはψ8を使ってψ*8を見出すことに対応するが、その具体的な描像は現段階ではいまひとつ不明。相互了解や間主観性の働きを持つと考えられる。
※ここに書いている「自我」とは、いわゆる近代的自我(コギト)ではないので注意。コギトの生成は次の段階(ψ11〜12)になる。
こうして、ボクがψ*2、ψ*4、ψ*6……を見出すことによって、ボクはほんとうの自分(無意識の主体)であるψ1、ψ3、ψ5………という外面世界に起こる出来事を対象化して見ることができるようになる。ここに生まれるのがヌース理論が感性(カンセイ)と呼んでいるものである。感性は「人間の外面の意識」を作り出す。人間の外面の意識とは、ラカンの精神分析にいう想像界に対応していると考えてもらっていい。僕なりの言い方をすれば「こころ」だ。ここでいう「こころ」とは情緒、感情などを含む情動が活動する世界のことである。つまり、ヌース理論の考え方では、「こころ」とは決して脳の中で起こってるシナプスの電気的反応でもなければ心臓部分にあるハートに宿る魂のことでもなく(いや、最終的には感性の位置は心臓と深い関係を持ってくるが……)、見えている世界そのものに立ち上がっている意識の働きだということになる。だから、たとえば花を見て花が美しいと思っているのは「花自身であるボク」だと考える。喜怒哀楽を繰り返しているボクの心の本性とは、目の前に見えている世界そのものなのだ。世界は自分自身を対象として見るために肉体を作り出しているということである。
こうした考え方は別に新しい考え方ではない。現象学の流れを受けた哲学者の大森荘蔵氏は、主体は知覚正面そのものだと主張し、「無脳論」と銘打って近頃全盛の唯脳論に食ってかかっている(残念なことにもうお亡くなりになられたが)。ヌース理論は大森氏の考え方をラカン理論や現象学などとすりあわせながら、シリウスファイルの情報等を複合して、人間の自省的意識の立ち上がり方を空間構造として具体的に追求しているだけである。ただ、もっとも、このときのψ10(感性)が中性子と関係があると言ったら、大森氏も引いてしまうかもしれないが。。
中性子とはヌースでは「共性(キョウセイ)」を持つものとして解釈される。「共性」とは想像的な自我が、他者との間で相互理解のための間主観性を働かせる方向を持っている部分である。それは単純に、思いやりのある、とか、相手の立場に立って、とかいう表現で表される心的態度のことと考えていい。上図に即して直観的に表現すれば、ψ7として表されている精神(陽子)の方向性を外面の意識が忠実になぞっているかどうか、ということだ。もし、なぞっていなければ、それは崩れる。ψ10はあくまでも思形の反映であるから、それ自身は能動的に自立した力を持っていない。この崩れが物理学が中性子崩壊と呼んでいるものではないかと考えている。中性子を単に物質を構成する核子の片割れぐらいにしか思っていない人たちには、この言い回しは妄想狂のトンデモ論に聞こえるかもしれないが、空間構造と認識の関係をケイブコンパス上で丹念に追いかけていくと、そうした予想が出てきてしまう。致し方ない。
ついでに、もう一つ大事なことを言っておきたい。これもトンデモの誹りを受けることだろうが、おそらく、ほんとうの主体として息づいている知覚球面(ψ5)そのものは、身体の内部に存在する空間ではないだろうか。僕らが、目の前に見ている世界を身体の外部と認識しているのは、思形が身体と知覚球面を分離させる認識を提供しているから起こっていることのように思えるのだ。想像界における意識活動(感情に代表される)がもろに身体に反応することからも分かるように、実際に目に見えている世界は身体の内部に存在している空間と考える必要があるように感じる。つまり、わたしの「前」に開示している人間の外面の空間においては、見るものと見られているもの、触るものと触られているもの、聞くものと聞かれているもの等、知覚と知覚対象はすべて二而不二なるものであり、本来、知覚とは身体が外界を察知するために働かされているものではなく、身体の内部のみで完結して起こっているできごとと見なさなければならないのかもしれない。
phenomenon(フェノミナン=現象)とは、psyche(ブシュケー=魂)とともにあるphysical(フィジカル=肉体的)な存在なのである。その意味で、俗にいう外在世界とは、言語と概念によって構成された「不在」の空間と言っていいのかもしれない。実際、横から見た世界なんてものは知覚されている世界ではないのだから、これは当たり前と言えば当たり前だ。とどのつまりは、人間は不在の中に言葉の力を借りて在を見ているということにすぎないのだろう。こうした空像の世界をヌース理論では「付帯質の妄映」と呼ぶ。人間の内面にはおそらく何もない。そこは闇だ。
——身体は出血している。人間とは存在の外傷である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ケイブコンパス, ラカン, 付帯質, 内面と外面, 大森荘蔵