4月 27 2022
4次元について―素粒子の中へと入って行こう
内在空間というのは、文字通り外在空間が内へと反転した空間です。外在空間を4次元の時空だと考えるなら、内在空間は4次元の空間です。この第4の空間軸は空間というよりも時間に関係し(虚時間)、ヌーソロジーが、4次元空間を延長ではなく、持続空間として見るのもそのためです。
外が内に反転するということは、外のあらゆる位置が一点に重なり合うことを意味します。持続空間の特徴はこのように、原点を一つしか持たないというところにあります。それによって、持続空間では「私はまったく動いていない」という感覚が生じてくるのです。
このことは平たくいえば、身体の内部の空間に入ることを意味します。身体の内部と言っても、内臓のような外から見た身体の内部のことではなく、内から見た身体の内部のことです。そこに精神が活動する空間があります。これは持続空間なのですから「記憶の器」と言い換えてもいいでしょう。ヌーソロジーでいう次元観察子Ψ5の位置です(下図上参照)。
この図で、Ψ5が先手を取って、Ψ5→Ψ6と働いているのが無意識です。一方、人間の意識はΨ6側が先手を取っているために、Ψ6→Ψ5というように、Ψ5が反映としてしか働いていません。そのためΨ5のカタチが見えません。記憶はΨ5の空間にあるにもかかわらず、それは脳の中にある―と考えてしまうのも、そのためです。
Ψ5の空間は奥行きを直径に持っているので長さを持ちません。物理学はこれを虚軸として表現しています。その意味で、反映側のΨ6から見ると、無意識のΨ5→Ψ6の対化は下図下のように空間上に小さく小さく縮んだものとして見えてしまいます。それを私たちは物質粒子(クォークであればuとd)と呼んでいます。
「素粒子は対象ではない」とヌーソロジーが言っている意味が、この図からも少しは直観できるのではないかと思います。言い換えるなら、素粒子を対象として思考している限り、私たちは自我意識から出ることができません。素粒子とは私たち自身なのです。
このような認識が生まれてきたとき、わたしたちの認識は物を外部から見る世界から、物を内部から見る世界へと侵入していきます。このような意識変容のことを「付帯質の外面」から「付帯質の内面」への反転といいます。これを皮切りに、無意識のシステムとしての素粒子知覚に入っていくということです。
素粒子物理学が何やら暗号のような複雑な数式表現になってしまっているのは、時空上から私たちの無意識構造を対象化し、それこそ精緻に彫塑しようとしているからだと思って下さい。素粒子の内部から見れば時空は結果です。結果の世界からその原因と結果を記述しているために、混雑化しているのです。
7月 26 2022
存在を開こう
@jikucafe
返信先: @kohsenさん
核質で覆われた世界のなかでは、無核質は弱く、それを利用するという転倒したかたちで見られてしまうのでしょうか。アワとサヌキのように。
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半田広宣
@kohsen
はい。人間の経験的意識が活動している位置が核質と呼ばれるものに当たります。無核質は核質においては素粒子の全体性として反映されています。その意味では電子を始めとした素粒子を利用したテクノロジーは無核質を転倒させて利用していると言えますね。シュタイナーにいう堕落したエーテルのことです。
以下、雑感。
素粒子を土台にした物質世界全体が霊的世界(エーテル界・アストラル界・神界)の転倒として表現されているということが人間の意識にはまだ見えてない。その原因は自己が自分を他者と同類の存在と思ってしまっているからだね。自己存在が無意識化していて、まだ立ち上がっていない。その位置が核質という人間型ゲシュタルトの場所。
物質世界を「所与」と呼ぶなら、所与を与える当のものの世界があって、それをドゥルーズなんかは「差異」と呼んでいる。ハイデガーの「存在」も同じ。ヌースの言葉で言うなら、この「差異」や「存在」の世界が無核質に当たる。核質は対象概念の力と言い換えもいい。無核質は、その意味では主客未分離の意識領域のようなものだ。
精神的個や霊的個体というのは、この無核質が意識に形作られたときに初めて自覚的に生まれる。これは哲学でいうところの超越論的なものが構成されている場のこと。つまり人間の経験的意識を作り出している側の世界。この無核質は付帯質の内面領域(物の内部)で働いている。それを顕在化させようともがいているのがヌーソロジーの営み。
科学的唯物論というのは核質膜で世界が閉じている状態。存在者のみで世界を見てしまっているということ。それこそ所与を与えている当のもの側について一切思考しようとしていない。それがハイデガーが云う”存在忘却”というやつ。私たちが「ある」と思っているものは、むしろ全き無なのではないかと勘ぐったのがハイデガーなんだね。
この状況のことをOCOTは「付帯質の妄映」って呼んでいた。世界が目の前に見えてはいるのだけど、中身は空っぽで、ハリボテだということ。存在者の世界が存在を構成する高次元の影なら、まぁ、そういうことになるわな。
だから、ほんとうは、存在を通して存在者が見えるようにならないといけない。そのためには一度、物の内部に入ってそこから外に出て、”存在”のルートを目覚めさせる必要がある。それがヌーソロジーでいうところの位置の等換という作業。持続側から時間を出現させるということだね。存在は持続→時間によって存在者として花開く。
私たちはそこに至って初めて、世界のこの多様な現前を自分や他者との関係性の中で問うことができ始める。
これからの時代はその方向に向かうべきじゃないかと思うけどね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュタイナー, ドゥルーズ, ハイデガー, 人間型ゲシュタルト, 付帯質, 素粒子