2月 5 2006
スピノール中毒
寝ても覚めてもスピノール。スピノールの服用のし過ぎで熱が出そうだ。とは言っても、ドラッグの副作用ではない。
スピノールとはSU(2)の作用によって変換される複素2成分の物理量のことをいう。厄介なのは、このスピノールというやつ、数学的な定義は明瞭だが、問題はそれが同時に回転という感性的な描像とつながりを持っているということである。ベクトルは360度回転すると元の位置に戻ってくるが、このスピノールは720度回転しないと戻ってこない。人間の知の欲望として、それって何じゃらほい?という突っ込みを入れたくなるのは自然だろう。
とりあえず、次のようなことを考えている。群SU(2)は以前ご紹介した3次元球面S^3と同相とされている。つまり、4次元空間に4次元球体が浮かんでいたとして、それが地球のようにグルグル自転していたとしよう。そのときの回転軸に当たるものがスピノール↑と↓ではないかと睨んでいる。3次元球面と3次元空間の違いは無限遠が一点で同一視されているかされていないかの違いだが、これは言い換えれば、3次元球面上の一点が3次元上の無限遠点でもあり、かつ、無限小点ともなっているということでもある。もちろん、この重複には0=∞*、0*=∞という捻れが用意されている(2次元平面上の原点と無限遠の関係が球面S^2上の対極点に対応すること同じ)。
ヌースでは、奥行き方向の直線はすべて一点で同一視されたものと見る。つまり、無限遠は同時に今ここに視野空間として張り付いていると見るわけだ。これは「わたし」が光速度状態に入ることに等しい。この視野空間は他者サイドから見れば、3次元上での「点」でもあるので、これが、∞=0*のヌース的意味となる。このことから類推すれば、3次元球面とは視野空間を持つ自他が互いに主体の位置を点と見なしているような3次元空間と考えてよいことになる。つまり、単なる物理的な3次元空間の一点一点に、観測者の認識という意味で、SO(3)=視野空間が張り付いていると解釈すれば、それは3次元球面に近いものとなるのである。実際に空間にはたくさんの瞳孔が浮遊しているではないか。
このイメージで、4次元空間内での3次元球面の対極点を結ぶ回転軸の意味を考えると、それは(0,∞*)と(0*,∞)を結ぶ線となる。ここに観測者の意味を付与すれば、この軸は個体意識の決定軸となる。というのも、この二つの極点の交換によって見つめ合いが起こるからだ。視野空間は見つめられることによって、点となり、その点を見つめる他者の眼差しを拝借するところに真の主体の位置が生まれることになるからだ。ふたつの双対スピノールが捩じれ合うことによって客観が生成される。おそらく、このことがツイスターの本質である。
となれば、720度回転もナゾではなくなる。モノをぐるりと大勢の観測者が囲んでいるとしよう。普段、僕らはモノ側に認識の重点を置いているので、モノが360度回転すると元に戻ってくると思い込んでいる。しかし、それは一人の観測者にとっての閉ざされた世界の中の出来事にすぎない。そうした回転がさらにもう一回りの回転の群を作っている。それが観測者の群である。モノの回転で一回転、次の観測者の視点を移動していく回転で一回転。合計2回転。これがSU(2)の実態に違いない。4次元における回転とは観測の視座の変換なのだ。SU(2)対称性。これがヌース理論における位置の変換の数学的定義となる。
3月 15 2006
首なし地蔵になれ!!
ヌース理論には「位置」という概念が重要な役割を果たす。
普通、位置というとモノの空間的な位置を意味するが、ヌース理論でいう「位置」とはモノではなく「意識」の位置を表す概念を意味する言葉である。はてはて、意識の位置とは何ぞや?となるわけだが、その第一のものは、次のような問いへの回答として用意されることになる。
「君は一体どこからモノを見ているのか?」
君が一つのモノの見え姿を見ている位置、それが意識における第一番目の位置と定義されているものだ。
普通は、モノを見るという行為は、物体が反射した光を目の網膜が捉え、その刺激が視神経を通して大脳に送られると考えられているわけだから、モノを見ている位置とは、わたしの目がある位置、もしくは、脳がある位置ということになり、君はアバウトに次のような答えを出すことになる。
「目のあるところです。」
しかし、この質問者がOCOTだったら、おそらく次のような答えがすぐに返されることになる。
「位置が全く見えません。」
要は、そんなとこからどうやってモノを見るというんだい?そんなところに位置はないよ。というわけだ。わたしからモノは見えるが、それを見ている目は見えない。意識が自分の目の存在を想像した時点で、意識はその本来あるべき位置を失う——この言葉にはそういう意味が含まれている。
意識の仕組みを現代科学のように脳全般の機能として見るているうちは、君は意識の在り方を全く誤解しているし、意識の正体をつかむ事もできないだろう。物質全般と意識には絶対的な差異がある。それは量的な差異でも質的な差異でもない。もっと本源的な差異だ。意識の原因をいくら物質に求めたところで、この差異を埋めることは出来ない。意識を思考の対象とするには全く別な発想が必要なのだ。
ヌース理論の文脈では、物質的な要素のみで世界を見るということは、実は見えない想像的な世界に入るということに等しい。つまり、科学的理性が活動を行っている場所は見える世界ではないということだ。最も、科学が僕らの世界に様々な現象を引き起こすからには、この見えない世界は何らかの仕方で見えている現象世界につながってはいる。しかし、そのフランチャイズは人間不在の空間である。というのも、物質世界では世界を見ている人間がすべて客観的な物質、つまり肉体としてイメージされているからである。そのようなイメージで世界を見ている眼は、僕の眼でも、君の眼でも、彼の眼でも,彼女の眼でもない。それは何か不気味なる一者の目である。物質のみで世界の構造を思考する科学的理性とは、そうした不気味なる一者の思考なのである。(実はこの不気味なる一者こそがOCOTの正体であったと言うと、ちょっとはスキャンダラスに聞こえはしまいか。。あっ、これジョークね)
もちろん、これと似た批判は20世紀の始めに、フッサールが現象学的視点から行ってはいる。フッサールは、ガリレオに始まる近代の科学的思考が現象世界に持ち込んだ数学的、幾何学的な記述方法を生活空間の隠蔽として激しく批判した。フッサールにとっての真の人間の意識の進化の方向とは科学的な方向ではなく、個体が徹底して主観化し、天上天下唯我独尊的な絶対の自我(現象学では超越論的主観性という)を確立させ、そこから、各個体が大地(Erde=地球)へと接続し、その大地のもとで各主観の結合を図ろうとすることにあった。
しかし、こうした警鐘も空しく,科学的理性はテクノロジーの圧倒的なパワーのもとに、物質の究極的要素と目される素粒子世界にまで、その理性の力を行使するまでに至っている。そして、現在、その無限小の果てに、無限大とつながった奇妙な構造を目撃し始めた。。はて、この世界は一体どういう仕組みになっとるんだ?。。ミクロとマクロがつながっているような、いないような。。。物質概念を引きずったままでは、このナゾは絶対に解けない。
さて、ここで最初の問いに戻ろう。
「君は一体どこからモノを見ているのか?」
ヌース理論からの回答は実に単純なものだ。それは視野空間から、と答えればいい。しかし、ここでいう視野空間とは肉眼に穿たれた瞳孔のことを指しているわけでは決してない。水晶体のことでもない。もちろん、角膜のことでもない。頭部は忘れろ。そういった物質的な表象として想像されるものではなく、純粋に視野上に現れている空間のことだ。つまり、通常の認識では三次元空間と見なされている場所そのもののことである。そこにはいつも言うように奥行きは一点で同一視されているので、無限遠(大)がへばりついているとも言っていいことになる。これが「顕在化」における最初の位置のことである。
こうしてヌース理論は、その「位置」を作るために、まずは君の首をちょん切ることから始める。首を切られればそれは死に等しいわけだが、生きながらにして死ぬ、死してなおも生きることのできる「無礙」(むげ)なる空間へ出るためには、このくらいのことは我慢しよう。「一即多」「相移即入」なる重々帝網の世界(華厳的パールネットワーク)へと侵入するためには、こうした首切りの儀式がまずは必要なのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 8 • Tags: 無限遠, 素粒子