10月 26 2015
アラカワの反転イズムは何を見ていたか
アラカワはやっぱり偉大だな。試みは失敗に終わったと言えるのかもしれないけど、想像的他者と共有される視点をはぎ取り、言語以前の宇宙の生成の場へと意識を引き込もうとする仕掛けをあれほど派手に形にした人はアラカワぐらいしかいないのではないか。とにもかくにもドゥルーズを身体化させている。
アラカワはドゥルーズに「言葉なんかはいらない」と言い放ったという。それを受けてドゥルーズは「アラカワは狂っている」と言ったそうだ。この話が本当なら、アラカワは、ほんとすごい(笑)
言語、時空、俯瞰的視線、想像的自我、さらにはそれらが持った偽りの共同性、遠近法、神経症etc。これらはすべて人間という体制が持った病なのだろう。存在の「反転」以外にこの病を癒す方法はおそらくない。
反転の契機はアラカワも言っていたように、極大と極小を同じところに置く概念の設定によって訪れる。これはアラカワのいうブランク=全ての存在に通底する零度の場所に相当するのだが、それを数学的に形式化しているのが、物理学者たちがいうアイソスピン空間(クォークやレプトンのスピン空間)だと思っている。
自己と他者が眼差しの交差を行う場所のことである。否、自己と他者と言ってしまうとまずい。より正確には、非人称的な二つの持続体=精神が互換重合を行なう場所と言ったほうがいい。わたしたちが経験する自己と他者は、それらが「場所=トキトコロ」を生成したところに結果として出現してきているにすぎない。
この構造から考えるならば、必然的にわたしたちは記憶を場所の力能と見なす必要が出てくる。つまり、記憶は脳などに宿るものではなく、「場所」に宿っているということだ。自己、他者、主体などといった概念もまた、その場所にとっての記憶として生産されているものに過ぎないように感じている。
アラカワのいう「違った位相的な個における新しい共同体」というのは強度的、内在的共同体であって、それはおそらく「もの」のことを言っている。ここには安易に結びつける全体性といったようなものは存在しない。安易な全体性とはむしろ時空的結びつきの方にある。回転対称性と擬回転対称性の違いのようなものだ。
佐藤氏がうまく言い当てているように、内部空間の回転には「 i (虚数)=愛」があるが、外部に反転させられた擬回転にはこの肝心の「 i 」が欠如している。「 i 」の欠如は、実体を欠くという意味でもあるだろう。ベルクソンのアインシュタイン批判を思い出す。
それは「ローレンツ変換における観測者とは一体何者か」という問題だった。彼に「 i 」が備わっていないのであれば、彼は物理学がデッチ上げたハリボテ人形のような観測者にすぎないのではないかということだ。なぜなら、この観測者は持続を持たないのであるから、時間を認識することなど到底できない。
時間が延びたり縮んだりするという相対論がもたらした現代科学の常識?は見直されなければならない。それはやはり、実存が欠けた見方にしか思えない。わたしたちは光速度において諸事物の同時性を認識しているのだ。なぜなら、観察者自身が光速度cの位置に「 i 」として生きているのだから。
10月 30 2015
Orとしての光
前回の記事を巡って、物理学者の佐藤さんが反応してくれた。
@kohsen S氏がうまく言い当てているように、内部空間の回転には「i (虚数)=愛」があるが、外部に反転させられた擬回転にはこの肝心の「i」が欠如している。「i」の欠如は、実体を欠くという意味でもあるだろう。ベルクソンのアインシュタイン批判を思い出す。
@satohakase 「アイ」があれば回転(e^iθ)になりますが、「アイ」がなくなれば爆発的増加(e^θ)または減少となるわけですね。自他の分断。
@kohsen ですね。佐藤さんはローレンツ変換における観測者とは何者だと思われますか?
@satohakase 時空ですから観測者が内部に投げ込まれていると思います。
@kohsen ベルクソンのアインシュタイン批判のポイントはそこにありました。時空内部に投げ込まれた観測者が果たして世界を観測(認識)することなどできるのだろうか、と。
@satohakase そうですね。時空においては観察者であるわれわれの「眼」がつぶされていますね。複素数(虚数)の意味を科学者は全く理解していない。
@kohsen 時空にばかり囚われていて、精神の位置が光速度不変の原理となって表現されていることに気づいていないんですよね。残念です。
@satohakase ニュートリノが光速度を超えた、というのはニュースになりますが、光速度不変の原理については思考停止状態で誰も突っ込んで考えようとしないのは残念なことですね。
――物理学の光から、眼差しとしての光へ
肉体の周囲に満ちている光は外部の光だが、同時に内部の光でもある。それはまたわたしの男なるものの部分と女なるものの部分と言い換えてもよいようなものだ。
ユダヤ教のミドラーシュでは、光を表す「Or」が皮膚を表す「Or」に変化していったとき、ジェンダーの原初的分裂が起こり、女性という存在が生まれてきたと説く。
この「Or」とは有機体=OrganのOrのことでもあるのだが、同時にそれは英語の『~か、”もしくは”~か』というときの「Or」の意味を併せ持っている。
つまり、光とは二つの領域にまたがる反復を司るものであるということだ。またそれが皮膚の機能にほかならない。
光とは存在の皮膚である。それは世界を包む光である同時に、世界に包まれた光でもある。光速度をわたしたちの精神の位置へと反転させることが必要だ。あの虚ろなルドンの目玉もアフロディーテの美しさを間近で見れば、目が覚めるだろう。
下の作品はルドン『キュクロプス』(1914年)
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 08_文化・芸術 • 0 • Tags: アインシュタイン, ベルクソン