11月 19 2018
美しきスフィンクスへと変身していくために
今回は現代思想がらみのお話。
ポストモダン思想の中核を担っていたドゥルーズ=ガタリ(以下、D=Gで記す)の思想は民族主義の再燃による保守化の動向とともに過去のものとして忘れ去れられつつあるが、ヌーソロジーとは驚くほど相性がいい。ガタリのエキセントリックな部分はあまり好きじゃないが、背後で援護射撃するドゥルーズが加われば、このデュオはやはりゲッコー兄弟のように強力なのだが、これにヌーソロジーが加担すると、超人ハルク並になる(笑)。その、あらましを少しだけ紹介しておこう。
彼らにとっての宇宙的無意識の流動場とも言える「器官なき身体」は「人間の元止揚」=ψ8~7、人間の欲望を作り出す欲望機械は「人間の感性」=ψ10、その欲望を抑圧するように働くパラノイア機械は「人間の思形」=ψ9に当たると考えていいだろう。
続くψ12~11(ヌーソロジーでは反定質と反性質)は、D=Gにとっては「独身機械」というものに当たり、D=Gに拠れば、この独身機械の領域に資本主義の「脱コード化/再コード化」のシステムがプラスされてくるとしている。
D=Gが説くこのような無意識構造の理論に空間的なトポス(空間の中にこれらの構造を見せるということ)を与えるのがヌーソロジーの役割ではないかと強く感じている。つまり、私たち人間の意識を作っているアプリオリを空間上に浮上させるのだ。
そして、「それが素粒子のシステムになっている」というのミソだ。つまり、人間の無意識構造と素粒子構造が一致を見るということがハッキリしてくれば、まさに、主客一致の意識領域が人間の前に開示することになり、人間が現在持っている世界認識は、その根底から変わっていかざるを得なくなる。
グローバリズムと反グローバリズムが衝突し合う今の時代は、すでに観察子構造がψ12~11からψ14~13の境域へと向かいつつあることを意味している。OCOT情報にいう「人間の最終構成」だ。ψ14はネグリ=ハートの「帝国」と呼ぶものに当たるが、ψ13の方は「※マルチテュード」と言うより、もっと異質なものでないといけない、というのがヌーソロジーの主張。
※ネグリ=ハートは「現在のグローバルな主権と資本主義の支配下にいるすべての人々」のことを〈マルチチュード〉と呼び、この〈マルチチュード〉こそが〈帝国〉に対抗する主体となる」―と言っている。
それは、D=Gの表現を借りるなら、再び、「器官なき身体」の内部に侵入を果たす民衆のことを指すと言っていいのではないか。ドゥルーズの言い方なら、潜在的なものの反-現実化を実行する「やがてやってくる民衆」というやつだ。ヌーソロジーが現在行っている「顕在化」の思考作業はその民衆の作業の一環に当たると考えている。これはネグリ=ハートの言うような政治的闘争は生み出さない。もっとメタなものだ。
資本主義機械のベースに当たるパラノイア機械は集団幻想を作り、欲望機械は個体幻想を作り出している。D=Gのいう「器官なき身体」は、集団か個かの葛藤から抜け出た方向性で活動している。もちろん、今の僕らがその世界を見ることは不可能だが、少なくとも、それを見出す方向に思考を転回させることが重要。
ヌーソロジーからの分析だと、D=Gが語る「器官なき身体」というのは「物自体」の世界と言っていい。いわゆる主客未分離の即自的世界だ。欲望機械はそこに戻ろうとして意識を方向付けているが(感性=ψ10)、その欲望に禁止の抑圧をかけてくるのがパラノイア機械としての人間の思形=ψ9だとイメージするといい。
この構造は、そのままフロイトの〈パパ-ママ-ボク〉のオイディプス三角形の関係に当てはめることができる。ボクは抑圧されるボク(自我)と抑圧から逃れようとするボク(エス―真の主体)の二つに分断され、意識は絶えず双方の間を反復させられている。こりゃ苦しいぞ、おい(下図下)。
反転した時空(ケイブコンパスのψ5の領域)をカタチとして認識することがいかに重要な意義を持つかがこの配置図からも分かるだろう。観点が球面を起こし、外的中心を見出すことは無意識の主体の位置を発見することに等しいわけだ。この発見がボクをオイディプス的体制から解放させる契機となっていく。
かなり説明を省いて書いたので、分かりにくいかもしれないが、ヌーソロジーは歴史発達や心理発達についても予想だにしなかった角度から繋がってくるはずだ。乞うご期待!!
12月 3 2018
グリーン・アイド・ソウル
天使が大空を天駆けるとき、
その大きな翼で吹きたてる風。
それがわたしなのだ。
わたしは、西の空に雲を吹き重ねて、
太陽のために紅の寝床を設けるのだ。
夜が明けると、朝陽を粉々に砕いて、
花々の上に、真珠の雨を降らせる。
わたしのため息は香り。
お前の胸を開きなさい。
そうすれば、お前の胸を
幸福ではち切れさせてあげるから。
(『緑の瞳・月影』グスターボ・アドルフォ・ベッケル)
・ノマドの思考
「緑」とスピリチュアリティというと、シリウスの伝説で有名なドゴン神話に登場する精霊ノンモを真っ先に連想するのだが、今回はちょっと開放的なイメージで行ってみようと思う。
たとえば、モンゴルの大草原をイメージしてみるといい。見渡す限りの一面の緑。緩やかな丘陵が優しい曲線を描き、短く生い茂った草が風にそよいで波打ち、遥か遠方にまで広がる大草原。それはさしずめ緑の大海原のようでもある。こうした風景を魂の風景に見立てた哲学者がいる。ジル・ドゥルーズだ。
彼の思考は、ノマド(nomade)の思考と呼ばれる。ノマドとはフランス語で「遊牧民」の意。もともとは、民族学や文化人類学で使われていた言葉なのだが、ドゥルーズはこのノマを、現代人がもったパライノアックな精神性から逃走させるための、新しい鍵概念として用いた。最近、「モダン・ノマド」や「ノマドワーカー」(オフィスではなくスタバなど、オシャレな喫茶店でPCを使って仕事をする人たちの意)なる言葉を聞く人も多いかもしれないが、これらの流行語の由来も、このドゥルーズの「ノマド」にある。
生粋の遊牧民たちは知っての通り、ひとつの場所に定住することなく、そのときそのときの必要性に応じて、住処を転々と変えていく。彼らは、資本主義にがんじがらめにされた私たち日本人と比較すれば、ほぼ「無所有の人々」と呼んでいい存在である。土地を登記し、所有することもない。彼らが住居として使用しているゲルは、、組み立て式でいつでも簡易に移動ができ、とかく役所の書類に縛られて生きている私たちとは、まるで違った世界に生きている。
ドゥルーズはこうした遊牧民たちの生活、文化様式の在り方に、人間の魂の本来あり得べき姿を重ね合わせて思考した。
・神を破棄する
肩書きもなく、年齢、性別もなく、名前もない裸形の自分は、自分をアイデンティファイしているものを一切捨て去ったときに、はじめて本当の自分自身=いまここ=now-hereへと至ることができる。ドゥルーズはこの《いまここ=now-here》をひっくり返して《エレホンErewhon》と呼ぶのを好んだ。あらゆるものが言葉の締め付けから解放され、そこに生きている自分の真の生命の有りざまを目撃したとき、人はようやく自分自身に内在する魂に目覚める。
そして、そこから魂はその内在性のなかで、新しい世界の創造へと向かう――かなりスピリチュアル向きの表現にアレンジをしてはいるものの、ドゥルーズの思考は、このように永遠の魂の存在を賛美するようなアジテーションに満ちている。しかし、ドゥルーズの哲学は決して単なる神秘主義などではない。おそらく、いかなる神秘主義よりも、過激で危険な思想だ。なぜなら、そこでは「神が神であること」さえやめなければならないからだ。
何よりも超越を忌み嫌うドゥルーズは、ユダヤ=キリスト教的な一神教の神を認めない。一者としての神に対するドゥルーズの批判は、殺人ならぬ殺神とも言っていいほど辛辣なものだ。ドゥルーズの思考のなかでは、神との間に交わされたユダヤ的な契約の解除によって、初めて私は「私が私であること」をやめることが可能になる。なぜなら、モーゼが取り交わしたこの契約こそが、近代的な自我としての「私」の身元を保証するものとされるからである。つまりは、自己同一性を担保する本源的な力は、実は「神」に由来するというのだ。
こうした哲学的構想のなかでは、魂が神に恋い焦がれ、再び神のもとに帰還するという、伝統的な形而上学がもったあの一者へのノスタルジーは、微塵も存在しない。むしろ、神は魂の抑圧者となって魂を迫害している存在なのであり、魂を人間の肉体の中に固く閉じ込めている本源力としてイメージされている。だから、魂を解放するには、まずは人間の意識のなかに巣食っている、この同一性の思考の供給者である神を駆逐しなければならない。ドゥルーズはそう考えるのである。
同一性を保証していた神が世界から退去し、ひとたび魂が目覚めると、いままで頑に自己を主張していた「私」は、ものの見事に存在しなくなる。スピリチュアル風にあえて言うなら、「自我の肉体からの解放」がそこで起こるのだ。この同一性の破棄によって、人間のみならず、鉱物、植物、動物、さらには大地、海、夜空にきらめく無数の星々にいたるまで、その境界はすべて取り払われる。世界全体が一つの大草原のように滑らかな空間に変貌し、そこにかつて「私」と呼ばれていた無人称の主体の新しい思考が、ノマドの風となってそよぎだすのだ。
・緑の瞳の魂
人間は、誰もが自我の同一性のなかに生きている。それは、現代のスピリチュアリストたちにおいても大差がない。「自分」探しの旅を決行し、本当の自分とは何かを求める人たちがいる。さらには、その追求の矛先を前世へと向け、「かつての私はどこどこの誰々であったのか」等の輪廻の真実を追求しようとする人たちがいる。
しかし、そこにも「かつての私」という形で、一人称の主体がしぶとく顔をのぞかせている。そうしたものが、どうして魂などと呼べようか。こうした同一性に依拠した魂を思い描いている限り、緑で覆われた広大な内在野の風景は、永遠に出現しては来ない。魂には、「私」などといった一人称は存在しないのである。
魂とは、自らの自我のヴェールをすべて脱ぎ捨てたときに出現する、純粋な精神のことなのだ。ノマドの草原に出よう。そこには無人称の主体としての無垢な眼差しがある。その瞳には、辺り一面に広がる大草原の緑が萌えるように映り込んでいることだろう。まさにグリーンアイドソウル―緑の瞳の魂―と呼んでいいものだ。その眼差しはいままでの「私」の一切を刷新して、新たな創造へのヴィジョンを見つめる惑星=地球の眼差しでもある。
Star People誌 VOL.43より
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, ドゴン