5月 1 2013
願いとして叶わざるはなし
一昨日の夕方、父が入院している病院から突然、連絡が入り危篤状態だと告げ知らされた。即座に病院に急行したが、駆けつけたときはすでに自力で呼吸をしておらず臨終寸前だった。心停止はそれからわずか5分後。院長先生が形式的に心臓マッサージを施してくれたが、もう蘇生は望むべくもない。午後7時13分。父、半田一夫、他界。93年間の長い人生にその幕を閉じた。
父との思い出はたくさんある。嬉しい思い出、悲しい思い出、ときに憎々しい思い出。しかし、今となって獏と蘇る父の姿は、ただただ「信念の人」とも呼べるような、そのイメージだけである。父の宗教観や思想態度がいかなるものであれ、自らの信条を貫こうとするその言動や姿勢にはほんとに凄まじいものがあった。わたしも今年で56歳。今まで他ジャンルにわたりたくさんの人々と出会ってきたが、それでも、父ほど信念の強度を感じさせる人物はいなかったように思う。漫画でいうならば、ちょうど『巨人の星』に登場していた星一徹のような人物だったのである。
本日、告別式を執り行い、喪主として挨拶をした後、10年ほど前の父とのとあるエピソードを読み上げた。読んでいる最中、当時の記憶が信じられないくらい鮮明に瞼に蘇ってきて、はからずも涙が溢れてきて止まらなくなってしまった。喪主としては失格である。このエピソードは10年前に当時のヌースアカデメイアのサイト上で公開したものだが、亡き父への弔いの意を込めて、再度、ここにご紹介したい。
●願いとして叶わざるはなし
2004年の7月17~18日の二日間、83才になる父の旅に付き人として同行した。父はS学会の50年来の熱心な信徒である。若い頃は教団の幹部を歴任し、教学部では教授の資格を持つ理論派の猛者でもあった。70才を過ぎてからは一線を退き、末端の一会員として活動していた。そんな父の長年の夢が、日蓮流罪の地、佐渡ケ島訪問であった。常々、死ぬまでに一度は佐渡の地を踏んでみたいと語っていた父だが、日に日に衰えて行く体力を案じて、ついに、この夏の佐渡行きを決心したのである。
佐渡に着いて、まっ先に向かったのは、S学会の佐渡会館である。わたしは父が会館側に何の連絡も入れていないことを懸念していた。突然の来訪者に果たして親切に応対してくれるものかどうか不安だったのである。出発前に、電話だけでも入れておくように何度も頼んだのだが、父は行けばなんとかなるとたかを括っていたようだ。悪い予感は的中するものだ。会館には二人の女性職員が応対に出てくれたが、二人とも大事な昼休みを邪魔されて迷惑しているようだった。父は執拗に佐渡幽閉中の日蓮の足跡に詳しい人物はいないものか尋ねるが、そっけない返事しか返ってこない。そうこうしているうちに、業を煮やした父が突然、キレた。
「わたしを誰だと思っとるのかね。幹部じゃないと話にならん。責任者を呼びなさい!!」二人の職員は露骨に嫌な顔して、あたり一面が一気に険悪な雰囲気に包まれた。致し方ない。わたしの出番だ。父と職員のやりとりの中に割って入り、事前の連絡を入れなかったことを詫び、何とか父を言い聞かせて会館を後にした。父が何と言おうとダメなものはダメなのだ。
自分が抱いていた佐渡の学会員のイメージと現実のそれには天地の開きがあったのだろう。父は憤慨しているというよりは、かなりのショックを受けているようだった。「佐渡の学会員がなぜ日蓮大聖人を大事に思っておらんのか。残念でたまらん。」父は悲し気に言った。まさに、父の魂の行脚は最悪のスタートとなった。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。すぐに天使役が現れてくれた。タクシーの運転手である。もちろん、彼は学会員ではなかったが、話をしてみると日蓮の足跡に思いのほか詳しかった。日蓮の佐渡の幽閉は文永八年~十一年(1271~1274)の四年間にわたり、そのうち二年は一の谷(いちのせき)に蟄居し、「開目抄」と「勧心本尊抄」をしたためたという。その場所には現在、妙宣寺という寺が立てられている。その隣には実相寺という寺があり、その傍にある「三光の杉」と名付けられた巨木の前で、日蓮は毎朝、鎌倉へ戻ることを祈念したということだった。しかし、彼が紹介してくれた日蓮に所縁のあるこれらの寺院は、父の仇敵ともいっていい身延派であり、宗門上の対立から、父は寺には決して足を踏み入れまいと固く心に誓っていたので、とりあえずは、その両寺の周辺を散策してみようということになった。
まずは実相寺である。ここには境内の外に日蓮の銅像があった。境内に入らなければ何の問題もない。父はまっ先に銅像へと向かった。銅像の前まで辿り着くやいなや、おもむろに、ふところから数珠を取り出し、数百米四方に響き渡るのではないかと思われる激声で、五字七字の題目を朗唱し始めた。魂というか、気合いのこもった音声が周囲の雑木林を震わせる。父とは過去、中国やグァムなどを共に旅行した経験があるが、ホテルの部屋であれ何であれ、一目をはばからず「南無妙法蓮華経」の題目三唱を行い、同行者にいつも気恥ずかしい思いをさせていた。しかし、この日ばかりは、父の声に羞恥心を感じることはなかった。わたしも、後方で、そっと合掌した。全精力を込めた唱題を終えて、父の気分も幾分か晴れたようだ。次に隣の妙宣寺へと向かった。三光の杉の前まで来ると、しばらく黙祷を捧げ、またもや激しい唱題が始まった。およそ七百年前、日蓮が立ったと思われるその同じ場所で、今、あの父が朗々と題目を唱えている。妙に感傷的な気分になった。時間にして正味10分ぐらいだったろうか。 唱題を終えた父は「もう思い遺すことはない。」と、神妙な面持ちで呟いた。佐渡の会館でのあと味の悪さがまだ残っていたには違いないが、どうにか、今回の旅で自分自身に課した責務を全うしたという安堵感が見てとれた。その後、日蓮と関係のある場所を何ケ所か回り、宿舎へと向かった。
* * *
翌朝、軽い朝食をすませ、すぐに宿を出て新潟へと向かった。新潟には昼前に着いた。飛行機の時間は夕方なので、出発までまだかなり時間がある。父が久々に一緒に映画でも見るかと提案したので(ひさびさどころの話ではない。父と映画に行ったのは小学校の頃の『2001年宇宙の旅』が最後だった)、わたしはすぐに市街地の本屋に行き、地元の情報誌を手に入れ、ロードショーの欄をチェックした。しかし、父が好みそうな映画はやっていない。「何もやってないよ」と告げると、しばらくの沈黙があった。 父がこの旅に満足していないことは分かっていた。いやな予感がした。「広宣、新潟のS学会の会館へ行こう」といきなり、父が言い出した。またもや予感が当たった。
「えっ………会館……」 正直、新潟の会館へは行きたくはなかった。おそらく、こちらは佐渡の会館より、その規模もはるかに大きいはずだ。職員も10名は下らないだろう。佐渡の件から見ても、会館の訪問許可証を所持していない相手に親切に応対してくれるとはとても思えない。組織は大きくなればなるほど機械化するものだ。佐渡であれほど痛い目にあっておきながら、父には全くこたえてはいない。仕方なく交番で会館の所在地を聞いた。会館は市街地のはずれにあり、タクシーで20~30分ぐらいかかるそうだ。いつものわたしなら、ここで父を思い止まらせたことだろう。――どうせ、門前払いを食らうだけだ。九州から出て来たどこのだれかも分からぬ半ばボケ気味の田舎老人に親身に応対してくれる人物などいるものか。タクシー代も無駄になるし、邪見に扱われれば、せっかくの旅の思い出が台無しになるやもしれない。ここはおとなしく博多に帰ろう――。咽まで出かけた言葉だったが、しかし、今回は敢えて制止しなかった。これは、父の人生の総決算の旅である。父は日蓮への積もる想いを共有できる相手を何とか、この地で見つけたいのだ。気の済むまでやればいい。最後まで父につき合おう。わたしはすぐにタクシーを拾いに走った。
郊外へと車を走らせること約20分。S学会池田記念会館というところに着く。車が止まると、父は何の躊躇もなく、すたすたと玄関の扉を開けて会館の中へと入っていった。恥を忍んで言うと、このとき、わたしは一緒に中には入らなかった。どうせ、また4~5分で追い返されてくるに違いないと思ったからだ。玄関前の喫煙所でタクシーの運転手と世間話をしながら一服して父の帰還を待った。ところが、5分、10分と経っても父が戻ってこない。嫌な予感がした。受付の人を相手にまた一悶着起こしているのではないか――心配になって、いてもたってもいられなくなり、様子をうかがいに中に入った。
思ったとおり大きな会館だった。玄関を入ると、右手にガラス張りの事務所があり、そこで10人以上の職員らしき人たちが忙しそうに動き回っている。しかし、受付の窓口のところには誰もいない。奥に入れたのかな――そう思って、ふと左手の方を見ると、奥まったところに小さなラウンジがあった。そこで、スーツ姿の中年の紳士と和やかに歓談している老人の姿が見えた。父だ。どうやら、話が弾んでいるようだ。大きな会館だけに逆に担当の係の人でもいたのだろうか。わたしは相手方の紳士に近づくなり、深々と会釈をし、お礼の言葉を告げた。紳士も丁寧に頭を下げて、名刺を差し出してくれた。「えっ……」名刺を見て仰天した。S新聞社新潟支局長――半田○×とあったのだ。何と父の相手をしてくれていた紳士は同性の人物だったのである。こんな北陸の地で同姓の学会員に遭遇するとは思ってもみなかった。
しかも、この半田氏なる人物の学会内での役職は新潟県の副総合長、つまり、県内No.2の大幹部だった。午後から幹部会が予定されいるらしく、たまたま、居合わせたというが、これは、まさしく父の執念の賜物以外の何物でもない。半田氏は父の来訪を心から歓迎している様子だった。いや、八十路をとうに過ぎた老人の佐渡行脚に痛く感銘を受けていたと言った方がいいだろうか。これほどの幹部ともなれば、おそらく、分刻みのスケジュールのはずである。その多忙な時間を削って、誠心誠意、父を歓待してくれている様子だった。懇切丁寧に日蓮の佐渡での幽閉の模様を語ってくれ、さらには、自分の生い立ちやI会長の側近としてヨーロッパを歴訪したときの様子などを嬉々として話してくれた。物腰の柔らかい、 とても感じのよい紳士だった。父と半田氏の会談は延々30分に及んだ。父は満面の笑みを浮かべている。この地で、自分と同じ想いを共有する、魂の同胞に最後の最後で巡り合えたのである。まさに逆転サヨナラ満塁ホームランだった。
会館を後にしたタクシーの中で、父の表情はまさに凱旋する戦士のそれだった。普段、S学会に対して若干の抵抗感を持っているわたしも、このときばかりは少し感動していた。ただ一言だけ、「よかったね。」といった。父は無言でうなずいた。
旅の疲れも出ていたのだろう。帰りの飛行機の中で、父はうとうとし始めていた。わたしはと言えば、会館の中へ一緒に入っていくことをためらった自分を恥じていた。父の生涯を賭けた旅に心からエールを送れなかった自分自身の心の狭量さを悔いていたのである。わたしは、あまりの居心地の悪さに、父に対して素直に謝罪することにした。「今回は、お父さんに学ばされました。申し訳ありませんでした。ごめんなさい。」耳の遠い父が、この謝罪の言葉を聴き取ったかどうかは定かではない。ただ、父は、この旅が、このような結末を迎えることを予期していたかのように、目を閉じたまま、ぽつりと二言だけ呟いた。「願いとして叶わざるはなし――。おまえのおかげだよ。」
実家での母との生活では、言ってることとやってることが正反対の父ではあるが、このときばかりは頭が下がる思いがした。祈願することとは何も他力本願で受動的に事の成就を待つことではない。祈願とは積極的な行為を伴ってこそ、祈りとしての意味を持つのだ。そして、また、人はそのような能動者であることによってのみ、祈願する心を利他へと純化していくことができる。
人が生きていくとき、そこには他者を通じて、か細い可能性の線が連鎖している。確かに他者という存在は、自己にとっては言葉の鉾先で穿たれた黒い穴であるだろう。しかし、その隙間にわたしたちは青空を見い出すこともあるのだ。祈りとはその青空に向けて捧げられるべきである。そして、何にもまして、重要なことは、そのとき同時に、自分もまた他者の青空となり得るよう、心から祈願することだ。父とはもう長い付き合いになるが、この日だけは、お互いの中にある青空を交換し得た感じがした。窓から見える雲海の中に沈む陽光がやけに眩しく感じられたのもそのせいだろう。
* * *
お父さん、本当にありがとうございました。
6月 6 2013
「奥行き」と『2001:A Space Odyssey』
奥行きと幅について考えてると、まるで目の前の空間にポッカリとワームホールが空いたようで、どんどん深みに引き込まれ、おまけにグルグルと旋回ひねりが入っていくものだから、脳みその関節がガタガタに外されて、今まで抱いていた共通感覚=良識というものが木っ端みじんに粉砕されていく。
そこで今日も、存在論的妄想をひとつ。
まず、奥行きは時空ではない。では一体どこなのか——奥行きは空間的には無限小の中にしか指し示せない場所であり、時間的には「すべての時間を懐に抱いたところ」としか言いえないような非-場所である。そして、なおかつ「それは何か」と問うこともできない。というのも、それは「それ」といったような対象ではもはやないからだ。自らが自らをあらしめているもの。その存在のため他のものを一切必要としないもの。まさに哲学的な実体とも言えるような何ものかである。よって、そこに主体が持った意識の志向性などといった野暮ったい概念を持ち込むことももはや許されない。いわば奥行きは空間の即自体でもあり、時間の即自体でもあり、もっと言えば、認識、思考の即自のような場所ではないかと感じるのだ。このことに感応したとき、以前は、「これぞ真の主体だ!!」などと言って舞い上がっていたのだが、奥行きの深みに居づけば居づくほど、この非-場所を単に「真の主体」とか「永遠」とか安易に呼んでいいものかどうか。。
ドゥルーズは『差異と反復』の前書きで次のようなことを言っている。「現代哲学のなすべき仕事は、〈時間的-非時間的〉、〈歴史的-永遠的〉、〈個別的-普遍的〉といった二者択一を克服することにある」と。そして「時間と永遠性よりもさらに深遠なものとしての反-時代的なものを発見すること」と。
奥行きの本性は確実にここでドゥルーズがいう「反-時代的なもの」につながっているような感覚がある。反-時代的というのは別に時代に抗って自然に戻ろうとか、そういうことを言ってるわけじゃない。世界がこれまで進んできた方向に対して、その大本からUターンすることである。神秘主義的に言えばプロティノス的転回とでもいおうか、つまり、所産的自然としての精神の営みから能産的自然としての精神の営み、つまり世界を創造していく能動的諸力への変身を果たすということだ。ニーチェ=ドゥルーズならば、迷わず力への意思と呼ぶに違いない。
と、ここで、いきなり『2001:A Space Odyssey』のオープニングが。。。リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」のBGMとともに、月の向こうからゆっくりと地球が現れてくる。ダントン、ダントン、ダントン、ダントン♪〜そして今度はその地球の向こうからまばゆい光を放ちながら太陽が昇ってくる。。ダントン、ダントン、ダントン、ダントン♪〜嗚呼、なんという黙示録的ビジョン。
月の力を太陽の力へとメタモルフォーゼさせる地球という名の原初的精神。反時代的なものとはまさにこの「始源」へと突然変異したところの地球のことなのだろうと思う。奥行きに沈み込んでいた永遠としての月の潜在的諸力が、奥行きの開示と共に地上でうごめいていた知覚や言語や情動や思考のすべてを飲み込んで、太陽の内包性へと接続を果たしていく。わたしたちはそこに放たれるそのあまりの光の透明性にもはやモノを見ることはなくなり、観ることそのものへと変身を遂げていく。
ここに地球という天体の意義、つまり大地の意義がドゥルーズのいう〈時間的-非時間的〉〈歴史的-永遠的〉〈個別的-普遍的〉といった二者択一を克服するものとして立ち上がってくのだと思っている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 09_映画・テレビ, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: 2001年宇宙の旅, ドゥルーズ, ニーチェ, 奥行き, 差異と反復